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背教の時代

昨日の交わりで、ニッポンキリスト教を熟知しておられる兄弟が言われた、「自分たちは聖書を直接に語ろうとすると、教会から危険人物とされる。聖書にこう書いていますが、と問うと、何と牧師は、聖書にはそうあっても、うちの教会ではこうこうですから、と答えるのです」とのこと。また熱くなってはならず、聖書の解釈も中庸を旨とすべしらしい。この点、彼らからすると私たちのセレブなどは実に危険であり、いわゆる聖書原理主義カルトにされるのが当然の雰囲気なのだ(*)。

なるほど聖書の言葉は神の言葉ではなく、神についての記事だとか、証言集だとか、処女懐胎はなかったとか、基督教団の牧師ですらのたまうそうだから、さもありなんだ。そして信徒は決してメッセージなどしてはならないのだとか・・・。聖書の解き明かしは、かつてのカトリックのように牧師が独占するものであるらしい。

そして、なんと、ついにそのカトリックが教会会議において、イエスはイスラエルの選びをキャンセルし、現在のイスラエルは不法占拠であり、聖書の神の約束を根拠にすることは許されない、と決議した。これが背教でなくして何であろう。カトリックはもともと御言葉がないのだが、ついにここまで行き着いたかと言う印象だ。ちなみに本件については先にニュースを紹介したが、Hal Lindseyも触れている。

ちなみにヴィオロン氏がグノーシスについての論考をシリーズで書いておられるので、ぜひ参考にしていただきたい。ポイントはアダムの命に神性があるとして、その死を経ずして、神と人の融合、あるいは合一を経験しようとするもので、ニューエイジなどに形を変え、現在も生きている諸霊による教えである。

十字架による死と復活を認めず、罪と死の法則やいのちの御霊の法則をないがしろにして、自己本位の内的神経験に走る輩もけっこういるようで、ニッポンキリスト教にもすでに相当に侵食していると思われる。真理を自ら捨て去り、自分本位の教えに落ちているニッポンキリスト教は、互いにカルト・異端と断罪し合いつつ、裁きの日に向かって、両者とも確実に荒廃するであろう。真の意味でエクソダスし得た人は幸いだ。

2010年は、昨年指摘したとおり、まことに背教の時代があきらかにされた年であった。

ちなみにアメリカでもクリスチャンの夫婦があまりにも信仰熱心すぎるとして会社を辞めさせられた事件があったようだ。

Christian Couple Fired for Being 'Too Religious' Seeks Trial

(*)彼らがどうしてKFCを知ったかと言うこと、その牧師が、私どもサイトを指して、こういった単立でパスターをイエス・キリストにしているようなところは危ないから行ってはなりません、と彼らに警告をしたからだとか・・・・。出会いはまことにフシギなもの。

Comment

武州の鳩

その兄弟の言われること、とても共感を覚えます。いずこも同じようですね。

某きよめ派で、私がリーダーをさせられた小グループでは、未信者の身内の葬儀の後に「霊」が来た、というアカシをされた方がおりました。他の方も聞いているので肯定することは出来ず、「それは身内の方かどうかわかりませんよ~、聖書によると...」とお話したところ問題になり、次の週報には「リーダーは愛を持って受け入れるように等々」と書かれ、「牧師じゃないんだから聞いてあげるだけでいいんです」とのご指導を賜りました。

ラオデキヤの記述は、なんと正確なのだろうと思わせられた思い出です。

  • 2010/11/02 03:49
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吉祥寺の森から 杉本

 何度もご連絡していますが、その後、私に対する民事提訴の件はどうなったのでしょうか。

 いつまでもとぼけていないできちんとご説明下さい。

 

都内の一読者

私も杉本さんに同意いたします。
なぜこういう状況になっているのか、説明なさるべきです。

  • 2010/11/02 16:20
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zion

焼香を認めてる(黙認の)教会も多いようです。
当方の教会は厳禁です。ふつう?
私はただ遺影の前で一礼です。でも職場での香典は多少妥協しているので、辛いとこかな。
みなさんどうなんでしょ?

  • 2010/11/03 20:57
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