心の清い者は・・・
- 2010/05/27 20:38
- Category: 信仰
最近のヴィオロンさんの一連の記事のテーマでもありましたが、Dr.Kさんがきわめて的確な解釈をされています。うれしくなりましたので、こちらでも引用させていただきます。
マタイ5:8-Blessed are the pure in heart, for they shall see God.
心が清い(純粋である)者は神に目が向くだろう(これを悔い改めといいます)と書いています。
心が清い(純粋である)とはどういうことか。
先の詩篇を参照にすると、
He who lifteth not up his soul unto vanity, nor sweareth deceitfully
言い換えると、己の魂を空しく持ち上げ、欺きの念を唱える者には救いはない(5節)。
己れの魂に目が向かないことが清いということ。
己れの魂に目が向かないので、神に目が向き、悔い改めることができる。
まことに同意であります。十字架による魂(Psyche)と霊(Pneuma)の切り分けもここにあります。今日のニッポンキリスト教の混乱はまさにこの混同から生まれるわけです。
* * *
本日はわが創価の友人より月刊誌『大百蓮華6月号』をいただいた。三代目池田氏の奮闘により一挙に教勢を伸ばした学会の歴史が面白い。さらにSGIとして世界192カ国に躍進するわけだが、この原動力がどこから来るのか・・・※。人間池田大作の魅力とパワーを伝えている。
※Twitterをご参照ください。
ちなみに私は禅にはまっていることはすでに書いているが、禅は小乗でして、「一個半個」と言って、きわめて個人的な経験を重んじるわけ。その目で見ると創価の教義は、世を行きぬくための人生訓的な色彩を覚える次第。聖典は日蓮の御書で、大乗的なんでしょう。今度、座談会に誘われているのですが、まあ、いわゆる地域ごとのスモールグループでして、ここで各自の体験を分かち合うのだそうだ。これが草の根的な創価の普及の力になっているようだ。
池田氏の教えの根幹は、いわゆる神秘体験や単なる教義の空理空論ではなく、実践あるのみ。社会のあらゆる分野に出て行き、「今、ここで、私が何をするか」。これが創価の力なのだ。その経験を互いに持ち寄り、分かち合う。そこには池田氏はいなくてもよいのだ。互いの交流にこそ力があるのだから・・・。その浸透ぶりは予想以上のものがあるようだ。
兄弟姉妹、いかがお感じになるでしょうか?
エシュコル
イメージ的にはクリスチャンはみことばを実践出来ていないのでしょう。教会(堂)内で「私が何をするか」に心が向いており、キリストが何をしたかの経験の分かち合いはほとんど無いでしょう。
交流と云えばただのお茶飲みみたいな所の多い事。