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人の心の不思議(3)

私のような立場にいると人の心の真実を否応なく見なくてはならない場面に往々にして遭遇する。その度にエレミヤ17:9は真理であることを確認するが、人の心はゆがんだ鏡のようである。

いろいろな面々が私たちの前を通り過ぎていった。不正な金を兄弟姉妹から集め、自分の事業につぎ込み、しかも返済を一切しない旅行会社社長。自分と合わない人に関して「あの人には悪霊がついているから気をつけよ」などの中傷を陰で行い、いろいろな人々に突然絶交状を手紙やFAXで送りつけるご婦人。女子高生と親に隠れて交際をし、それを戒めた私の言葉を呪いの預言として、そのために鬱病になったと訴えるやたらと神学には詳しい中年独身男,etc。

これらの方々は結局私たちから離れた後、私どもを、異端だ、カルトだ、と言い広めて回っているが、これもお決まりのパタン。こういった傾向はこの世の組織でも、例えば大学の学長選挙などに伴って怪文書が流れるなどよくあるが、このような話を見聞きするたびに、黒沢明の名作『羅生門』を思い出す。

お体裁の人を気持ちよくするメッセージで、人を"接待する”牧師もいるようであるが、真実に御言葉を語るならば、必ず人の心は霊と魂が切り裂かれ、その真実が暴かれる(ヘブル4:12-15)。一方でいろいろとややこしい神学論争で、これまた互いに異端のレッテルの張り合いをする先生たちもいる。神学的にいかに正しいかろうが、神の取り扱いがない、いのちに触れないメッセージは虚しいし、それは神に仕えるものではなく、人に仕えるものに過ぎない。このようなメッセージで人を集めて何千人教会などを作っても、神の前でいったいどのような意味があろう。

仏教でも救われるとか(私は禅で永遠のいのちが得られるとは言ってないですよ、念のため)、救いにはイエス以外のいろいろな道があるとか、未信者で死んだ人もわずかの善をなしていれば天国に入れるとか、こういった人間中心の教えが表立って目につくようになってきている。このような霊的偽りの状況において、私たちのような立場にあるとつねに、神に仕えるのか、人に仕えるのか、を直接に主から問い掛けられる。神の言葉を預かることの責任である。

人に仕えるのであれば、御霊の油塗りは必ずストップする。自分がどこにいるのかは、内なる油塗りの感覚で分かる。この塗り油にとどまること(1ヨハネ2:27)―ここにクリスチャンのいのちのすべてがかかっている。