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注ぎ出すことの祝福

下にも書きましたが、ニッポンキリスト教にあっては献金が大きな躓きになっているようですね。特にいわゆる1/10献金を強制されて、それで相当にまいっている人や、神に呪われるのが恐ろしいとか、さらには恨みを抱いている人などが多いようです。

実は、自分の何かを捧げること、さらには自分自身を注ぎ出すことあるいは自分を無にすること―これはもっとも大いなる祝福なのですが、キリスト教と言うシステムの中ではあまり味わえない経験のようです。私も献金では主を試みたことがありますが、御言葉どおりでした。

どうもニッポンキリスト教で躓きますと、「自分を注ぎ出す」などに対しては、「Dr.Lukeはカルトだ」とか言いたくなる人もいるようですが、そのような心の状態は貧しく哀れなものです。自己をすべて("神")とする人の兆候です。

英国のKingdom FaithのColin Urquhartが最近のメッセージで、自分を注ぎ出すことの祝福をシェアしています。よろしかったら、お聴きください。またウォッチマン・ニーの言葉も紹介しておきます。

"Receiving from God" by Colin Urquhart

働きに倦む時に by ウォッチマン・ニー

Re:雑感

聖霊派ではマラキ書をもって十分の一献金をしないと神から盗む者であり、あるセンセイなどは、4倍返しで呪いが来るとメッセージしていました(ある方に勧められて聴いてみたのですが・・・汗)。

私のところにその教会にいた方がいるのですが、私がマラキ書に従って1/10でもよいし、2コリント9:7に従って心に決めたとおりでもいいのです、と申し上げても不安があったそうです。そこである日、献金を一切やめたのですね、実験的に。ところがそれでも祝福はますます増し加わったとのことです。

献金はこのような喜びの中から捧げることが鍵であって、額の問題ではありません。もちろん多く撒けば多くの実を収穫できることは法則ですし、マラキ書に従って神を試してもよいのですが。神は真実であることは、私も経験的に証しすることができます。

それと右の手がしていることを左の手に教えないことですね。名前の書いた月謝袋みたいな献金袋があるそうですが、献金するとスタンプをするようなのはおかしいのです。ある教会では請求されるそうですが(笑)。主が知ってくださればよいのです。

Re:戦争した方がマシ!?

 みなさまのコメントに内なるものが触れ、参加させてください。
 いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。
   マタイ10−16
 ルークさんがメッセージの中で、救いの極みを健全なバランスのとれた人間生活。そう語っておられると受け取っています。それは上のみことばが成就することでもあると思います。世の中に送り出された私たちは、主・イエスにあって泳ぎきれるのですね。
 ルークさんの感覚がとてもよくわかるのです。在沖縄ですから憲法9条は、コメント難しいのですが、甘ったれるな、とどうどうと言えたら気持ちいいなと思いますね。

Dr.Lukeの一言映画評

アップロードファイル 13KBまたまた映画。『ハンニバル・ライジング』−あの人肉食殺人鬼のレクター博士の生い立ちを描く。

人肉食はカニバリズムと呼ばれ、聖書の中にも出てくるし、かつてフランスで恋人を食べてしまった佐川君事件もあったし(心神喪失による無罪)、幼女連続殺人の宮崎勉も被害者を食べたとも言われている。宮崎被告人については精神医学の権威たちによって3つの精神鑑定が出され、精神医学の客観性の欠如を暴露したが、学界でもいまだにその泥仕合が続いている。こういった犯罪者はサイコパスと言われるが、生い立ちを見てみるとそうなる理由もかなり理解できる部分もあるのだ。

スターウォーズ−シスの復讐−』で、あのダースベイダー卿がいかにして誕生したかを明かしたが、この映画もそれとモチーフが似ている。つまりハンニバルにせよ、ダースベーダーにせよ、"正当な理由"があって悪に堕ちたのだというメッセージによって、観客はその悪のヒーローに感情移入(同情心)を起すのだ。日本では、例えば、宮崎被告人がその手の奇形によっていじめられて、あのような人格が構成されたとしても、彼に対して感情移入を起すことはまずあり得ない。しかし欧米ではしばしば、今回のような悪に対する感情移入を起し得るモチーフが使われるのだ。これは前に紹介した『パヒューム』でも同じ。

さらに、今回もそうだったが、かえってキリスト教会にシャナリシャナリと通っている人物が、実はハンニバル以上の悪なのだ。お分かりいただけるだろうか。ここにはキリスト教的な偽善と欺瞞を暗に非難する意図が見られる。いや確かに歴史的キリスト教は大いに非難されるべきであるし、キリスト教がかえって壊れた人格を作り出すことも、例えば昨年の牧師の覚醒剤事件でもわかる。下手に聖書に触れるならば、かえって一旦堕ちると酷いことになる。

が、注意すべきはキリストとキリストご自身の違いなのだ。私もキリスト教には吐き気を催すほどに嫌悪感を覚える。しかしキリストご自身はますます慕わしく、麗しいお方となっている。キリストはキリスト教の教祖などではまったくない。しかしここが区別できないために、キリスト教につまづくことによって、キリストご自身を拒否し、ついには神に敵対してしまうことが、特に聖書の知識をなまじ持っている欧米人では言えるようだ。ヘビメタ系のロック歌手なども同じメカニズムが働いている。欧米人はキリスト教によるトラウマと言うか、コンプレクスを抱えて、常にそれと葛藤しているのだ。

昨年の『ユダの福音』などでも分かるとおり、どうしても悪を擁護し、ついにはそのルーツである悪魔すら擁護してしまう。サタンは誰にもよらず自らの意志によって神に対して反逆したが、人間は誘惑によって罪に陥る。前者には悔い改めも神の憐れみの余地もないが、私たちにはそれがある。

最近の時代の霊(アイオーン)は、キリスト教とキリスト教徒を用いて、実に狡猾に人々をキリストご自身から引き離すことに成功しているようだ。

この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。

しかし、レクター博士が日本の剣道や華道などに精通し、先祖礼拝によって霊的なパワーを得ていたとは!?紹介される日本の事物が実は日本ではないのだが・・・。韓国と中国が混ざっているワケの分からん日本だ。彼我には日本文化ってあんな風に映っているのだろうか、やれやれ。

青春の光と影

アップロードファイル 36KB昨日の青春の話にはいくつのレスをいただきました。泣けてしまったとのお声もありました。やっぱり、どなたも甘酸っぱく、同時にちょっとホロ苦い想い出を持っているのですね。ジョニ・ミッチェルの『青春の光と影』と言う名曲がありましたっけ(映画にもなっています)。

邦楽では森田公一の詩がしみじみと迫る年代になりました:

卒業までの半年で答えを出すと言うけれど
二人が暮らした歳月を 何で計ればいいのだろう

青春時代が夢なんて あとからほのぼの思うもの
青春時代のまん中は 道に迷っているばかり

二人はもはや美しい 季節を生きてしまったか
あなたは少女の時を過ぎ 愛にかなしむ人になる

青春時代が夢なんて あとからほのぼの思うもの
青春時代のまん中は 胸にとげさすことばかり

でも私などはいまだに迷っているかも知れません。根本的に自己決定をしたくないのだ。考えてみると学生時代からわが生活も服装も変わっていませんし、気分もほとんど同じ。いまだにフラフラしていますし。カミさんとの関係も当時から古びた感覚もしません。子供たちは成長しましたが。

クリスチャンではありますが、ニッポンキリスト教徒にはなりたくありませんし、この業界の病理と倒錯は想像以上だと分かりましたし、イロイロ言われても、まあ、創価学会で言われるようなもの。私の人生とは関わりがない。ただこうして皆さんとの個々の出会いと交わりは大切にしたい。

何とか教団の決議だの、決起声明だの、日本民族総福音化何とかなんて恐いだけですし、昨日述べた学生運動のアジ演説みたいなもの。ややうるさいBGMです。たまたま主日にはメッセージをしていますが、別に集会をでかくしたいわけでもない。油塗りがなくなって楽しくなくなったらただちにたたむ予定。ビョウキの人のお相手はほとんどしたくないし、信仰も基本的に自己責任でと考える。私はニッポンキリスト教公認の牧師などではないのだ。福音も主が伝えるべきと導かれた人には語るが、こちらから折伏することはない。互いに人間同士の関係を楽しんでいる。

まあ、こう書くと目を吊り上げた人たちからは怒られそうだが。依然としてモラトリアムしているわけかも。憧れるのは山に篭ること。桜と富士を愛で、温泉を楽しみつつ、生きること自体を慈しみたい。学生との触れ合いもそのひとつの楽しい場面ですし、個々のクリスチャン同士の交わりも同じ。こうして一期一会を大切にしつつ、主が下った時々刻々、日々、年月を主と共に生きる。これにまさる幸いはないわけ。

リバイバル音頭で、あの聖会だ、あの油注ぎの器だ、あの教えこの実行と、かまびすしいニッポンキリスト教徒を見ていると、何故か悲壮さと血気と油と汗の臭いがするのだ。もっと力を抜いて、日々を慈しみつつ生きればよろしいと思うのですが・・・。まあ、余計なお世話でしょう。

アップロードファイル 11KBあらゆる事柄の上に主のあわれみといつくしみに満ちた御手を覚え、その摂理の中に生かされていることを思うとき、何なのでしょう、意味不明な喜びがこみ上げるのだ。主にあっては私たちの光も影も、その栄光で包まれ、ナッシングと化してしまう。この死のダイナミズム!

聖なる方 聖き方に
誉れと栄光 賛美 永久(とわ)に
御座から恵み 憐れみ満ち
御顔の栄光に 我 消えゆく

すべてに 勝る
主よ ただあなただけが 完全 真実
アイ・スタンド・イン・オウ


聖なる方に、聖き方に、
高き御名 子羊 主よ
とこしえまで 変わらぬ方
造られしもの 何を持ても
御顔の栄光に 影 落とせず
−Faith05の"I Stand In Awe"(←視聴可)の和訳:

もっともっと力の抜けた、生きることの味わいを知るクリスチャンがどんどん出てくることを願っているところです。

慣れることの恐れ

日本社会への警告で宮内さんが、慣れることの恐れに警鐘を発している。確かに90年代以降、あの宮崎勉による事件を始めとして、この手の犯罪が増えているが、私たちはあまり驚かなくなっている。

無感覚。これもひとつの心を守るための自己防衛機制である。今日のメッセージでも語ったが、牧師が覚醒剤に手を出し、女性を投げ落として殺す。しかし、この業界、あまり驚いてはいないようだ。いのちの歩みにとって無感覚は致命的。臭い部屋に長くおれば慣れてしまう。タバコを吸う人も一度ヤニで汚染された肺の病理標本を見たらよい。

バブル崩壊以降、日本は変わった。ニッポンキリスト教も大いに変質した。お笑いで福音を語るとか、「10分毎に笑いを取る説教をするためのセミナー」とかに2-300人の牧師が集まるのだ。イエスの十字架の福音を笑いのネタにすると・・・。慣れてしまうとこれが当たり前になる。人が救われればなんでもよいと。人に媚び、人をおだてる伝道。参加者の動員数で神の祝福を計る教会や聖会。しかし「キリスト教徒になること」と「キリスト者になること」の間には致命的なギャップが存在する。

倒錯が倒錯でなくなることに無感覚になること−今後この世も、ニッポンキリスト教界もこの病状がますます深くなるだろう。対策は−タバコの煙から離れること。すると鼻は元に戻る。騒がしい処を避けること。すると耳も繊細になる。主もしばしば大衆から離れ、ひとり山に篭り、父と交わったのだ。・・・いわんや、私たちを哉。ニッポンキリスト教から離脱するためにアーサー・ホーランドのようになる必要はありません。普段着の普通のオジサン・オバサンのままで退きましょう、父との交わりの中へ。

主の家の大庭にいる一日は千日にまさる。

Re:お知らせ

AH師のメッセージ(4/1)です
興味のある方はどうぞ
http://www.icbc.net/message/index.html