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人に仕えることと神に仕えること

朝日記を書くのもまた一興。イエスはなぜペテロに「サタンよ、下がれ」と言われたのか。イエスは続けて語る、「あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」と。

今回日本テレビで視聴率操作の件で経営陣が降格、本人は懲戒解雇かつ流用した制作費一千万を返却しない場合は詐欺で刑事告訴もあり得るとのこと。この件ではじめて知ったが、何と視聴率は関東圏の600世帯を調査しているだけ!関東圏にどのくらいの世帯があるのか不明であるが、多分0.何%ではないだろうか?この600世帯が何を見ているかで、製作者とその番組の価値が決められる。いあや、驚きました。統計学的に言っても、視聴率の数字にどれほどの意味があるのか?無作為抽出で選んだとしても、たまたまその嗜好が偏ることは大いにあり得る。せめて数万世帯をサンプリングする必要があろう。

教界でも楽しいメッセージや退屈させない礼拝の方法を伝授する牧師のためのセミナーがあるという。「5分おきに笑いを取る説教」のコツとか。ある有名牧師の説教のテープをいただいて聴いたが、やれやれ10分でギブアップ。立て板に水の流暢な説教はかえって御本人様の強烈なニオイと浅薄な霊性を証明している。人に受けることを念頭においていることはあまりにもミエミエであった。この牧師センセイ、これで信徒を沢山集めて、日本有数の教会という評判を取っていることが自慢であるらしい。商売である。

パウロは言っている、「私は今人に仕えるのか、神に仕えるのか、人に喜ばれようとしているのであれば、私はキリストのしもべではあるまい」と。商売繁盛のコツはきわめて簡単である。人の肉を喜ばせばよい。すべて大衆において受け入れられる物、価値観、思想、人物はみな肉を気持ちよくする。先の600世帯はまさに「お客様は神様で〜す」。

人のことを思い、神のことを思わないセンセイや、臭いものには蓋で表だけを白く塗った教会、チョウチン記事だけのクリスチャン・メディア、どこにエレミヤの叫びがあるのか?かえって信徒様や購読者様を神様にしている牧師やメディアがはびこる。このような風潮にあってどうして大リバイバルなどが起こり得ようか。<リバイバル=教勢拡大>ではない。神はいつの時代にもレムナントによって御業をなさる。大衆はむしろつねに神の敵となる。

今、私たちは誰につき、誰を喜ばせるのか。信仰の根本が問われている。

心が痛い?

この言い回しはニッポンキリスト教と関わるようになってよく聞くようになった。というか、私の言葉で心が痛くなる人がけっこういらっしゃるようだ。Dr.ルークの言葉は鋭いとよく言われる。ならば、ペテロに向かって「サタンよ、さがれ!」と言われたイエスの言葉の方がはるかにするどい。

実はこの言い回しの裏には巧妙な自己愛が隠れている。「心が痛い」とはその対象の立場に自分を置いて、自分が傷つくであろう場面が予想された場合、自己防衛する時に使われるようだ。

「心が痛む」のは大変結構であるが、今日ニッポンキリスト教では当たり前が当たり前でなく、黒を黒、白を白とすることで「心を痛める」繊細な方々が多過ぎるようである。姦淫している牧師に対して、「先生が可愛そうだから」として見て見ぬふり。「相手を傷つけたくないので、求められると性的関係も許してしまう」とか。かくして教会の中に罪がいたるところに隠蔽されている。

「相手を傷つけたくない」とは、実は、「自分が傷つきたくない」の裏返し(これを「同一視的投影」という)。自己愛の変形が他人に対して、「心が痛い」と感じさせている。実は自分を愛していることの事実に気がついていない。

「心を痛める」前に、まず客観的な正確な情報を得て、十分にアセスメントし、善悪をわきわえまてからでも遅くはない(ヘブル5:14)。一方的な情緒的な話に踊らされ、見当外れに「心が痛い」とするのが、ニッポン人の得意とするところだからである。メッセージでも語っているが、聖書には一切の甘えの入り込む余地はない。「あながたのことばは、しかりか否かであるべきだ。それ以上は悪から出る」とあるとおりである。

私たちが本当に心を痛めるべきことは、信じない人が多過ぎること−主の十字架が貶められていることである。

十字軍@NHKスペシャル

11世紀に起きた十字軍の特集があった。時のローマ皇帝の一声で、イスラムによって占拠されていたエルサレムを奪還すべく、燃え上がった人々が十字軍を結成し、イスラムの人々を大量に虐殺した。

見ていて、正直言ってキリスト教は恐いと感じた。絵においてもイスラムを虐殺したキリスト教徒の目が逝っている。彼らは「キリストの名」によって、「神のために」なしたわけであるが、完全にカルト化し、狂信者と化している。宗教は恐い、これが私の実感である。

では私たちクリスチャンとは何なのか。私は自分をキリスト教徒と思っていない。私が信じているのはキリスト教ではなく、キリスト御自身である。宗教ではない!生けるお方との関係である。私たちは別にエルサレムなど奪還しなくとも、どこでもいつでも礼拝することができる。否、むしろそのような礼拝を神は求めているとイエスは言っている。

目に見える場所や方法を、目に見えない方(パースン)よりも優先すること、これが宗教である。現在モリヤの山の神殿の跡には嘆きの壁とモスクが建っている。ディスペンセイション主義によれば、ここに第三神殿が再建され、そこに666が自分を神として立つはずである。しかしこの予言解釈を金科玉条にして、青筋立ててこれを守ろうとするならば、これはすでに立派な宗教である。

イラク戦でもアメリカの一部の狂信的牧師が「サダムを殺せ!」とほとんど逝っている目を持ってメッセージしていたが、これもすでに宗教であり、カルトである。また現在でもイスラエルに入れ込む牧師たちが、ブッシュに対して「イスラエルの領土は一歩たりとも譲ってならぬ、譲るならば神の裁きが下る」と叫んでいるが、これも狂信であり、十字軍と何ら変わりはない。そこに働く霊は御霊ではない。

すでにまことの神殿は建て上げられつつある。まことの神殿とは私たちである。至聖所は私たちの霊である。霊と真理による礼拝、これが神が求める礼拝である。物理的なイスラエルという地は神がメシアをもたらすために経綸的に選んだ地に過ぎない。本質は教会(エクレシア)である。私はイスラエルと教会が置き換わったとする「置換神学」ではなく、「元から神学」を唱えている。神は元々教会を得ることが御旨だったのである!

まことの神の神殿として私たちが建て上げられることが神のエコノミーを完成し、私たちがキリストの花嫁として用意される時、主が迎えに来られるのである。どうして成長していない教会を花嫁として迎えることができようか?一部の人がメシアニック・ジューなどを奉っているが、何も彼らを特別に扱う必要などない。彼らの肉の誇りに応える必要はない。肉のものは何ら意味はない!

イスラエルとエクレシア−あなたはどこで真の礼拝をするのですか?

バイブルカレッジ−預言者の務め-

もいつのまにか第8回目を迎えた。前回から王と預言者たちを扱っているが、このボリュームを3回でこなすことはかなり無理がある。きわめてきわだったハイライトを扱っているが、預言者のポイントは神に立ち返れとのメッセージであり、王たちはこれを拒み、ついには北王国はBC721年、南はBC586年に滅びるわけである。

今日のペンテ・カリスマ系における預言のミニストリーはほとんどがいかがわしいが、20世紀中庸に用いられたオースティン・スパーククス(ウォッチマン・ニーとも交流があった英国のミニスター)の"Prophetic Ministry"を皆さんに紹介した。

マーレーやこういったクラシック系の書物がほとんど顧みられていない昨今の情勢はきわめて危うい。いろいろな自称「預言者」や「使徒」が現れているが、主は「彼らは勝手なことを語っている」と言われていないだろうか?預言者の特質は大衆からは拒否されるのである。

まことの預言者はけッして人受けすることは語らない。先のアメリカの大リバイバルの「預言」などもきわめて嘘臭いと私は感じている。主は決してそのようなことは言われない!大衆受けするものはたいてい偽りであることはほとんど100%間違いない真理である。

リバイバルorサバイバル、それが問題だ !?

いやはや、いわゆる聖霊派(ばかりでもないですが)を通ってきた人々と接していると、目が点になるような驚く話が続出します。ある問題をいさめたところ「Dr.ルークに呪いの預言を受けた」とか騒ぐ人まで出現。やれやれ。

自分と合わない人はすべて悪霊に憑かれており、自分を攻撃してくるとか、意見が食い違うとすべて霊が違っている、自分は聖霊についているが、相手は悪霊であるとか。

彼らは私の専門からするとパラノイドの病理に犯されています。「人差し指と小指を立てている人がいたが、彼は悪魔礼拝者で、こんな人がいる聖会には怖いので参加しないとか」・・・。その後もわけのわからない発言をする人が身近にいたことにまったく驚きを覚えております(汗)。

パラノイドの病理が蔓延すると、誰が悪霊につかれ、だれが敵で、だれが味方かと、互いの交わりが損傷を受けるようになります。私はメッセージでもクリスチャンは神の宮であり、聖霊を宿しているのだから、思いを見張れば悪霊によって影響されることはないと口を酸っぱくして語っているが、どうも話のわからない人がいるようです。これらの人々は何でも悪霊のせいにしており、個人の責任がどこかへとんでいるのです。

今回これらの人々にはKFCを去っていただきましたが、私のもとにくる人々はきわめて多彩で、ニッポンキリスト教の病理の典型的サンプルとなる例が多いのです。彼らを診ていて分かることは、一言、病んでいますね、ニッポンキリスト教界は。リバイバルどころではなく、サバイバルが必要となっています。「リ」と「サ」の一字違いですが、ここをわきまえないと、とんでもないことになりますよ(これも呪いの預言になるんでしょうかね・・・苦笑)。

金太郎飴からの解放

KFCのメンバーのAさんが、ある牧師に「KFCに定期的に参加している」と言うと、その牧師いわく、「もっとオーソドックスな教会にした方がよい」。Aさん、「アーソドクスな教会って一体何なんでしょうね」と。

私はメッセージでも語っているが、私たちは使徒信条の告白から始まり祝祷で終わる式次第(プログラム)は一切排している。1回1回、主の導きのままにセレブレーションが進む。それは宗教儀式ではない。私たちは宗教をしていない。よって一昨年より昨年、昨年よりも今年、というようにセレブレーションのあり方も臨在の濃度も変わってきている。

オーソドクスな「金太郎飴教会」はこれまでニッポンキリスト教の規格品を大量生産してきたが、しかし伝道にはむしろ障害となってきた。誰しもつまらない窮屈で退屈な礼拝に貴重な休みの日曜日をつぶしてまで参加したくはない。眠たくなる牧師の説教などは、校長や社長の訓示で十分である。

私はメッセージでも語っているが、「ニッポンキリスト教非公認規格外教会」を目指している。しかし私たちのセレブレーションに参加している人は証しして下さると思うが、主の臨在はますます濃厚になっている。いつまでもハズレ・クリスチャンでいたいと思っている。

ただしこれは絶えず主だけを見つめ、主に付き従うことをモチベーションとしていないと、ついていけなくなる。ヘブル人の意味は「川を渡る人」の意味である。アブラハムのように自分の快適な領域を出て、過去を忘れ、前へ、前へとキリストだけを追求する人が、まことのヘブル人である。

教会の秩序と個人の自由

私はこれまでニッポンキリスト教の律法的思考でガチガチになっている人々に、「○○すべし」とか、「○○は禁ずる」などの菓子箱にはまるような生き方をするのではなく、「私たちにはすべてのことが許されている、しかしすべてが益になるわけではない」を基準として、自分で判断するように導きを与えてきた。またキリストにある自由と罪定めからの解放をメッセージしてきた。

が、今回、とんでもない勘違いをしている人たちがいることが判明した。私たちはすべてのことから自由であるが、その自由を肉の働く機会としてはならないとある。またキリストにあって罪定めされないが、各自は自分の行動の責任を自分で刈り取る必要がある。真の自由を享受するには責任が伴う。

今回の「重大な決断」とはまさにこの問題を取り扱うことであった。放置すれば破廉恥な犯罪となり得る事態であるにもかかわらず、本人はその認識がなく、事の道理がわからない。キリストの体である教会の秩序を個人の自由を盾にして肉の働くままに乱すものは交わりから取り除かれる必要がある(1コリント5:11)。

私たちは自分で恵みによる祝福の道か、罪の刈り取りののろいの道かを選ぶのである。これは神の前と人の前における信仰の歩みにおいて厳粛な真理である。大リバイバルの預言で喜ぶ前に、ニッポンキリスト教はひとりひとりがキリストにあるオトナになる必要があろう。