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ネタは尽きまじ

精神保健学の講義で、意味不明の事件が今後多発することを毎年予言しているが、年々そのとおりになってきてしまっている。講義のネタには事欠かない。

今日においては、小6の女子が同級生の首をカッターナイフで切って殺す事件、母親が高2の娘を10箇所刺しまくって自分も自殺を図るという事件、はたまた小5の女子が飛び降り自殺を図った事件、そして父親が21歳の娘に指を切断させた事件。なんだコレは!

どこか狂っている、この世も、そして教界も。ますます当たり前が当たり前でなくなっている状況。私もニッポンキリスト教と接触し始めて驚いたのは、健全な人が少ないこと。当たり前を当たり前にできる人があまりにも少ない・・・、とっとっと。これはもう前にも書きましたね。

北朝鮮から帰国されたお子さんたちは、おそらくこのようなニッポンに適応するのはかなり困難だろう。彼らには「主体思想」という屋台骨があるので、仮に洗脳されているにせよ、秩序を保っている。長幼の序とか、礼儀作法とか。よって現ニッポンの堕した様を知るようになれば、相当に葛藤を覚えるだろう。

クリスチャンの子供たちもおかしくなる子が多いが、親を見るとたいてい、物分りがよく、立派なキリスト教徒の振る舞いができる人である。しかしまともな子の親を見ると、しばしば物分りが悪く、しつけも頑固一徹に張り手も辞さない人が多い。しかるに聖書は何と言っているか:

 箴言3:11―わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。

 箴言13:24―むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。

国の根幹は子供のしつけにある、が、今日真の愛が見失われて、偽りの砂糖まぶしの"愛"が蔓延っている。この甘さは実は親が自分に対して甘いからである。同じように牧師が信徒の顔色を伺い、牧会というサービス業を生業としているからである。ご機嫌取りのメッセージで、うちの信徒は○○人とか称して。

ここでもまた予言しよう:この世でも教界でも、ますます奇奇怪怪の事件が多発するであろう。しかも意味不明性を増し加えたものが・・・。

 * * *

BGMを変えました。Carol Owenの"Jesus I love you"です。

自己愛の克服か、受容か?

まず、カレッジのテープは現在注文が殺到し、処理が遅れています。お待ちいただいている方々にはご了承をおねがいします。

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コフートという精神分析学者がいる(いた)。彼は、フロイトが克服すべき病理として指摘した自己愛(ナルシシズム)をむしろ積極的に受け入れて、互いの自己愛を認め合うことを提唱している。これは日本的に言えば、互いの甘えを積極的に認め合って、受容していこうと言うことになる。

現代のアメリカでは結構流行している考え方である。競争社会では自分の身の置き所がなくなるように感じてアイデンティティ・クライシスに落ちる人が多いからであろう。ちなみに日本の企業もいわゆるリストラで合理化を図るアメリカタイプの企業よりは、終身雇用を守る企業の方が業績が回復していると言う。私はニッポンの社会はアングロサクソン的な弱肉強食は耐えられないであろうと考えているが、その実証でもある。

日本はかつは藩(殿様)が人生の面倒を見てくれて、粗相がなければ生涯が保証された。明治維新以降は天皇であったり、企業がその役割りを果たし、高度成長期も一生を企業にあずけるサラリーマンによって成し遂げられた。ここに企業がある意味で人生の"母親"の役割を果たしており、甘えが潤滑油となっていたわけである。

90年代に入りバブル崩壊と共に、過酷なリストラにより人生の糧ばかりか、自分を否定されて自殺者が年間3万人を超えている。一方で目的を見失ったフリーターが417万、ニートだったかな、要するに親に寄生している者が63万人(10年前の1.6倍)、引きこもりが100万人、失業者数370万人。これがニッポンの現状だ。効率だけを追求し、人の価値を金で計ってきたその結果である。

現在真の意味で個人の価値を回復する必要があるし、良い意味での自己愛を認める必要もある。主は「自分を愛するように人を愛せよ」と言われた。自分を愛することができない人は、実は他人を愛することができない。しかし、だからと言って、現在のニッポンキリスト教におけるオンリーワン的流行は偽りである。なぜか・・・。

そこに十字架がないからである。主はまた言われた、「自分を否み、自分の十字架を負ってわたしに従え。自分の魂を救おうとする者はそれを失い、失う者は得る」と。これをメッセージする人が今日ほとんどいない。むしろそのようなことを語ればただちにカルトのレッテルを貼られる。

しかし、真理は自分を救う者は自分の魂を失った者であり、自分を愛する者は自分を否んだ者である。真理はしばしばこのような逆説に満ちている。そしてこの逆説を解くのが十字架である。十字架を経ずして、自己愛の受容を唱えるから、現在の教界の様を生んでいる。今、真に必要なのは、総ての不条理を解く十字架の経験の回復である。

チャーチスクールは・・・?

いやあ、ほんとに驚きました。BBSでこのトピについて懸念を表明するや、これほどにエキセントリックなレスを次々にいただくとは・・・!?

私がある団体のカルト化の指標として見ているのは、そこの指導者に対して批判的意見を投げてみることです。医師が胸を叩くように、あえて石を投げるわけです。コレに対するそこのメンバーの反応でカルト化はすぐに見て取れます。言うまでもないですが、カルトではその批判意見すら許されない雰囲気が醸されます。

例えば私は今英国のコリン・アーカートとのかかわりがありますが、彼も物言いがはっきりしているために英国では結構批判されています。しかし彼が批判を受けても私とはなんら関わりのないことです。彼は彼、私は私。それぞれのアノインティングに従うことだけ、これがすべてです。パウロは言っています、「ある人はこうしており、別の人はああしている」。

私がニッポンキリスト教で注目株だと言ってくださる人もいるのですが(今回のBBSにもありましたが)、私とはなんらのかかわりがありません。「言動に配慮せよ」と言ってくださった方もいますが、まっぴらご免、です(笑)。もともとこのようなパブリックなミニストリーをする意図もありませんでしたし、何らかの評価を得るつもりもありません。この高々1%の村社会でそれが何になるというのでしょう?

私は今までどおり、淡々と主と私の間にある油塗りに従うだけです。キリストをエンジョイすること、これだけが私の願いです。むしろそのような人の評価はあえて壊すことでしょう。人の評価などはコロコロ変わるものであり、真の自由を損なうだけです。私は自由を享受し続けたいのです。当たり前を当たり前にしつつ。

どうもニッポンキリスト教、真に満足し、健やかな人が少ないようです。「あなたはオンリーワン、神のVIP」と言われると喜んでも、「富む者はますます富み、持っていない者は持っている物までも取り上げられる」というメッセージには腹を立てる。満足と健やかさがないからです。真に満足している人は「VIP、オンリーワン」などど叫ぶ必要もないことです。「富む者は・・・」と聞いたら、喜びにあふれて「アーメン」と応えるでしょう。ますます富む者となるために、キリストを前へ前へと向かって追求するだけです(ピリピ書)。

おかしな「自由・平等・博愛」の価値観がいつのまにか蔓延っています。聖書が言っていることを、私は明確に語ります:神の国の原則は、能力に応じてタラントが分かち与えられ、そのタラントを増やす者が、よくやったしもべとして主から報酬を受けるのです。しかし同時に、自分の弱さにおいて主の恵みは十分に現れ、主は見栄えのしない肢体を格別に整えて下さるのです。

あなた方の言葉はしかりか否かであるべきだとあるとおりです。

Blessings!

至聖所@車

私は東京湾をグルッと片道1.5時間の車通勤をしています。実はこの車の中が私にとって唯一孤独になれ、運転以外の仕事から完全に解放される時空間なのですね。よってこの往復3時間をほとんど主との交わりと祈りに費やしています。

実に濃厚に主の臨在が迫り、異言がずっと出て来るのです。時に涙もあふれますし、あるいは大声で賛美を叫びもします。何しろこの空間はいくら大声を出そうともまったく問題ありません。聖別された空間なのです。

かくしてこの時間に主のタッチを受け、個人的なミニストリーをいただくわけです。実に癒されます。メッセージもここでインスピレーションをもらいます。またお言葉もかけてもらいます。

CDもよく聴くのですが、もちろんワーシップもですが、実はセキュラーなミュージックも結構聴いています。例えば、EaglesやABBA、あるいはサザン・オールスターズや中村雅俊、時に阿川泰子のジャズ、はたまた高橋真理子のスタンダードなどなど(まあ、オジサン系と言われればそれまでですが・・・笑)。

セキュラーなものを聴きつつも、実は臨在をエンジョイすることができるのです。仕事をしながらでも、講義をしながらでも、キリストに触れることができます。これが霊と魂の分離です。魂の状態によらず、霊が臨在に憩い、主の甘さを享受することができるのです。

私にとってはウォッチマン・ニーとともに、ブラザー・ローレンスがひとつの大きな霊的模範です。

真理と霊による礼拝

本日のメッセージは大脳生理学と霊との関係を説明しました。実際にはパワーポイントで映像を用いながら説明しています。音声では「ここが」「あそこが」とか言っておりますが、映像がないのでよく分からなくてすみません。

このWEBでは私のメッセージ部のみですが、ライブ録音テープでは2時間のセレブレーション全体が収録されています。いわゆる「聖霊派」よりもはるかにぎやかです^^。真理をかなり理屈っぽく学んだ後は、霊を解放して、主をエンジョイしています。

 今、父は、真理と霊による礼拝者を求めておられる。

真理と霊、霊と真理、このバランスが鍵です。

福音派?

「ルークさんは聖霊派と言われることにえらく拒否反応を持っているんですね」とメールをいただきました。ええ、確かに。正直言って、生理的にその臭いに嫌悪感を覚えています^^(すみません、「聖霊派」の皆様・・・)

しかしこれは私が福音派と言うわけでもありません。福音派は福音派のプライドと臭いがあって、これもあんまり・・・です。えらく立派な神学と理論をお持ちのハイソな先生ばかりで、私などはちょっと・・・ですね。まあ、社会派は論外ですが。

というわけですが、これはその「派」の中の個人個人を嫌っているわけではありません。事実私のKFCにはきわめて様々のバックグランドを持っている方々ばかりです。個人はお互いにキリストのいのちを分かち合う兄弟であり姉妹です。また頼まれれば、どこでもメッセージはしています。真理はパブリック・ドメインですから。

いろいろな慣習や教義はそれぞれですが、私たちはそれをすり合わせることも議論もすることもしていません。ただジーザスにフォーカスしてキリストをエンジョイするだけですね。セレブレーションに入り込むとジーザスのみで、周囲は見えなくなります。

「聖霊様」or「イエス様」?

ある聖霊派の方が私のメッセージやKFMのワーシップではすべてジーザスにフォーカスしていることで混乱したと言ったきたことがあった。

彼女曰く:「私はこれまで、三人の神様にそれぞれに義理を忠実に果たすために、お父様、イエス様、聖霊様、ありがとうございます・・・と祈ってきたんですが・・・。これから誰に祈っていいのか分からなくなりました。」というわけ。おこられるかも知れないが、正直言って、心の中で笑ってしまった。なるほど、彼らは三神論に落ちている。

神の三一について二つの異端がある。ひとつは「三神論」、一つは「様態論」(ひとりの神があるときには父のペルソナ(面)で、あるときは子のペルソナで、あるときには御霊のペルソナで現れる)である。

今、神と人の仲保者は人なるイエスただおひとりであるとあるとおり、この受肉し、いまだに人であり続けるイエス(イエスは人間性を脱ぎ捨てて天に昇ったのではない)において回復され栄光化された人間性に私たちは与るのである。鍵は人間性である。「霊的になる」ことや「聖化される」ことは、「人間になる」ことである。霊能者になったり、仙人になることではない。人になるのである。

イエスにおいて回復され栄光化された人間性は、父を100%表現していた。よってこの人間性に与るとは、神の御性質に与ることである(2ペテロ1:4)。これは「神になること」ではない。人間性において神の御性質に与ることである。これを初穂として成就された方がイエスであり、そのイエスのなされた事実を私たちに伝達し、実体化してくださる方が御霊である。

ジーザスにフォーカスすることは実は神の三一をすべてあがめることである。聖書はアダムとエバの結婚で始まり、子羊と新エルサレムの結婚で終わる。主賓は誰か、子羊である!神の永遠のご計画は、イエスにあって受肉した神が、花嫁を得ること。これが結婚の奥義である(エペソ5:32)。かくして神の幕屋が人と共にあり、神と人が共に住まう(黙示録21章)。

ジーザスを知ることは永遠のいのちをもつこと。ジーザスをあがめることは三一の神をあがめること。ジーザスに栄光を帰することは三一の神に栄光を帰すること。かくして私たちのセレブレーションは毎回次の祈りで終わる:

神に栄光がありますように・・・・In the mighty Name of JESUS!!!