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霊的精鋭部隊-霊的覚醒への備え-

私の本では、豪華なステーキを振舞うのではなく、必須アミノ酸をバランスよく含んだ、プロテインスコアの高い霊的精進料理を提供すると書いた。しばしば教会関係の本は、見かけだけゴテゴテしており、内容が希薄。たとえるとマシュマロにホイップクリームを塗ったようなもの。私の本は堅いし一口目では味はないが、噛めば噛むほど味わえると思う。で、すでに出版前に予言したとおり、評価の黒白が明確に分かれている。http://www.kingdomfellowship.com/Column/flowing31.html

ある人たちは目からうろこで、真に霊的真理に目を開くことができたと言われ、ある聖霊派の神学校では「理解できない本」とされているらしい。私のミニストリーについてもある人はレクチャーテープも高いと感じていたが、一度学び出したらはまってしまったと言われ、ある人たちは意味不明と言われる。ある人たちはセレブレーションで主の愛に触れられ、涙があふれ出て、同時に内側が新鮮に潤われると言われ、ある人たちはDR.ルークは愛がなく、冷たく突き放すタイプだと言われる。ある人たちはDR.ルークのメッセージはこれまで聴いたことがない内容で新鮮であり、聖書が新しく開かれたと言われ、ある人たちは言葉が鋭く切られるようで聴いていられないと言われる。このコントラスト!実に面白い。

私の書き物にもメッセージにもいわゆる口当たりの良い調味料、特に砂糖や蜂蜜は一切添加していない。むしろ塩辛いし、苦いと思う。よっていわゆる大衆受けはしないし、してもらっても困る。私は真理は基本的に少数の者たちが継承するものと考えている。真理は大衆とは相容れない。この意味で必要な栄養分を十分に含んだ食物を、代価を払ってまでも追求したい心のある人々に届けば良いと考えている。テープの値段もそのように設定しているが(あまり売れないだろうと言う値段)、予想に反して注文が殺到し、少々お待ちいただいている状況。真摯に追求している人がこれだけおられることを知って励まされている。中身がなければ詐欺になる値段設定であるから、繰り返し購入される方が多いことは、それに見合う中身を提供できているものと勝手に判断している。

神が今必要としている器は、大衆受けする甘いマスクの霊的ヨン様ではない。ギデオンの軍隊で分かるとおり、3万人ではなく、精鋭の300人でよい。無駄な肉を削ぎ、鍛えられた霊的筋肉で武装した少数のソルジャーたちである。ある意味で私のミニストリーはそのような霊的精鋭部隊に仕えているのかも知れない。が、大衆受けする甘ったるいミニストリーは山ほどあるから、変り種がひとりくらいいてもいいでしょう。(これでまたDR.ルークは高慢の霊につかれたエリート主義者だとか言われるでしょうね^^)

真理がまことに適切な地に撒かれるならば、必ず実を産出する。北海道から沖縄まで、御言葉がまかれ着実に育つならば、神はその少数者を用いて業をなさることができる。リバイバル(本当は霊的覚醒と言いたい)とはある日天から突然に「来る」ものではない。着実な準備があってのみ神は働くことができる。私が「聖霊の原爆」などは眉唾であると言うのは本気である。パウロは「私はあの大使徒にも劣らない」と皮肉を言っているが、私も「あの大預言者にも劣らない」と言おう。「私にも神の霊があると思う。」

感情論からの脱却

ある教会がカルト化しているとかで、私もそこを離脱した方々のお話を伺うことが機会がある。その際ひとつ感じることは、感情論が先行していることである。問題点を伺っても、感情的な発言ばかりで、何が本質か見えてこない。

その牧師が独裁だとか、不倫があるとか、預言が外れるとか、献金の要求が強引だとか・・・、それは現象論に過ぎないのであって、それを生み出した病根が見えてこない。逆に私どもの理解力の欠如を云々される。それどころか私がそこの牧師と似ているとか言い出す人もあるようだ(ヤレヤレ)。

ネットでも色々な議論があるようだが、離脱した方々も自分が経験した範囲での感情論を取り扱っているに過ぎない。そこでの「教え」にアンチテーゼを提出しているに過ぎず、オールクリアして一から真理を学んではいない。つまり形は離脱しても、そこのものをそのまま引きずっている。それではおそらく10年経っても同じところをグルグル回るだけである。

要するに真理がないからである。聖書は一応読んでいるし、御言葉も知ってはいる。が、それが有機的なネットワークとなっていない。メッセージにしても御言葉の部分部分をつなぎ合わせて、「自分が主張したいこと」を、御言葉のカバーをかぶせて主張しているだけ。自分が聞いてきたことを捨てようとしない。お分かりでしょうか。ここでも自分の魂を救おうとしている。霊と魂が分離されていない。

他人が自分のことを分かってくれないと憤りを感じる場合はよほど注意が要る。それはまさに裏切られた自己愛の裏返し。特に日本人の場合は甘えの構造がからむのでややこしくなる。私はそのような場合、「あなたと私に何の関わりがありますか。あなたはあなたで主に従いなさい」と申し上げることにしている。聞く耳をもって、学ぶ姿勢のない人には何らの助けを提供し得ない。

「その日」には主の前に一人で立ち、主に対して自分が何を申し上げるか、その場面を思うべきである。

ニッポン野球界とニッポンキリスト教界

野球連盟は結局は新規参入を認めたくないのが本音。「最善を尽くして審議するが、来年からとは保証できない」と言うが、本音は「やりたくない」。これはよくある言い訳で、私は「・・・だから、○○できない」と言う人は、「要するに、やりたくないないんだな」と理解する。

人は本当にやりたければ、徹夜しようと、無理をしようとやるもの。競馬やパチンコに入れ込む人々を見ればよい。球界の長老さんたちも、真に野球の未来を思っているならば、新規参入をまず来年の目標とし、それに向かって邁進し、できなかったら、残念だ、となるはず。

かくして新参者のTシャツの若造などは、金を持っているだけじゃ仲間に入れないよ、俺が知らんヤツは話にならん、と言うわけ。私などもメッセージはGパンとTシャツかポロシャツですからね(笑)。ネクタイなどは年に1,2回と言ったところ。

球界と教界―実に良く似ている。一説によると午前10時以外の礼拝などは「正規の礼拝」ではないとのこと。「正規の礼拝」は午前10時を旨とすべし。教団に属していないものは胡散臭く、私などもある神学校では「素性が分からん」と言われているようだ。○○センセイ系列が問題になるらしい。ちなみに医学界の医局制によるジッツも同じ。企業では系列を廃止し、医学界も医局廃止を検討し始めたが、教界は何も変わらない、否、変える意図がないようだ。あらゆる面でこの世よりも10年以上遅れている。

ニッポン野球界とニッポンキリスト教界―ニッポン的にして、あまりにニッポン的な二つの業界である。

PS.古田会長は老獪な御老体たちを相手によく検討している。私は野球はあまり関心もないが、今回は彼らを応援したい。

Dr.ルークの一言映画評―キング・アーサー―

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              ヘイドリアン・ウォール跡
           (スコットランドとイングランドを分ける)

レイトショーを観て来た。アーサー王伝説は15世紀の騎士サー・トーマス・マロニーによって書かれた小説「アーサー王の死」によって、中世騎士の模範として描かれ、円卓の騎士や聖杯追及で有名である。

しかしこの映画はソレではなく、ブリテン島の原住民とも言えるケルト人の伝説に基づき、時は紀元415年、ローマの支配下にある同島において傭兵としてローマに仕えたアーサーがハドリアヌスの壁の向こうからローマ人を救い出せと言う命令を受ける。北からローマ兵も恐れたサクソン人が、南にはブリントン人(ケルト人)のウォードと呼ばれる軍隊が割拠する中を進軍する過酷な任務であった。

アーサーは当初ローマおよび国教であるキリスト教を理想としていたが、自分たちが助け出したローマの司教による異教徒ブリトン人に対する拷問や虐待を見て、ローマに疑問を覚える。その時に救い出したブリドン人グウィネヴィアと結ばれて、自分の母親を殺したブリトン人と和解し、ブリテン島を捨てたローマから離れて自由のために共に残虐なサクソン人と戦い、かくしてブリテンの王アーサーが誕生するという物語。(プロによる紹介はこちらを→http://www.eiga-kawaraban.com/04/04071301.html

モチーフはメル・ギブソンの「ブレイブハート」と似ている。というか、西洋古典の「指輪物語」も、近代の「スターウォーズ」も、みなアーサー王の影響を受けているとらしいほどに、その伝説は西欧人の心の中に深く刻まれている。日本で言えば、「忠臣蔵」的だろうか(ちょっとスケールが違うが)。ところが彼らアングロサクソンが理想とするアーサー王伝説は、元々自分たちと戦ったケルト人の英雄伝説なのである!かくして歴史にはいつも裏があり、はなはだトリッキーである。

壮大な戦闘シーンもよくできており、かなり楽しめた。アーサー役が役所広司に似ているのが気になったが。一昨年の夏、わが家はブリテン島を車で一周してきたが、ハドリアヌスの壁の跡や、映画でも出て来たストーンヘンジを見ていたので、とても実感を伴って観る事ができた。(英国の名所はこちらをどうぞ→http://www.kingdomfellowship.com/Column/Camp02.html

前に「HERO」でも書いたが、人を治める、あるいは人の上に立つためには、ある種の「徳」が求められる。今回も円卓の騎士たちが己を虚しくして、命を賭して戦うのは、自由という大義のためというメッセージがあった。ひるがえって安全なところから掛け声だけの現代のブッシュも、「イラクの自由」という大義を叫んでいるが、なぜか高貴さが欠如しており、彼の物語は本映画よりははるかに安っぽく感じられてしまう。次なるムーア氏の「華氏911」が楽しみである。

クリスチャンの本質

どうもニッポンキリスト教と触れていると、クリスチャンって一体何よ、と疑問を覚える場面が多い。いろいろな運動や神学があって、互いに張り合ったり、相手が間違っていると異端のラベルを張り合って・・・と。

一方にはエキュメニカルという運動があって、互いの教理を認め合ってひとつになりましょう・・・と。しかし私たちはマリアを礼拝すること(彼らは崇敬と言うのだそうだが)は認められないし、仏教でもヒンズー教でも何でもかんでも救われるとは言えない。救いを与える名はただイエスだけである。クリスチャンのアイデンティティを決めるミニマムというものがある。

一方で分裂に次ぐ分裂、他方で人工的な<ひとつ>を作る運動。クリスチャンの本質はどこにあるのか。それはキリスト教徒になることではなく、キリストのいのちを吹き込まれること。内にキリストを宿した存在がクリスチャンである。教会とはそのような器が団体としてキリストを証しする生ける有機体である。人間が歴史上組織してきた教団や教派とは関係がない。いのちの有機体、これがエクレシアである。互いにいのちを共有し、内なるキリストを交換する場である。

今日のメッセージでは、石の板に書かれた旧約律法は廃棄され、私たちの心に書かれた新約の律法―内なるキリスト―について交わった。同時にレビ系の祭司制度から、メルキゼデク系の祭司制(=キリスト)に変わった。まことのいのちの木なるキリストを私たちのうちに生かすことが神のご計画である。内なる律法とはキリストである。キリストが自らその律法を生きてくださる。このいのちを実体化する方が御霊であり、御霊は私たちのうちにキリストを生かしてくださる。アブラハムへの約束はすでにキリストにフォーカスを置いていた。私たちの責任はただ信仰。信仰を生むのは愛。かくして愛を通して働く信仰だけが尊い。

クリスチャンがただキリストだけにフォーカスすれば話はもっと単純になるはずであり、これがリバイバルであろう。リバイバルとは死んでいたいのちの現れである。クリスチャンの間で神学者の名前はよく聞いても、イエスの御名をあまり聴くことができないのは不思議である。もっとイエスの甘さや魅力について交わることができないものか。この一人のお方との関係に生きること。内なるいのちの御霊の法則に乗って、内なるいのちを享受する人たち。これがクリスチャンである。

「もっとも本質的なこと」
http://www.kingdomfellowship.com/Column/flowing33.html

人の心の不思議(3)

私のような立場にいると人の心の真実を否応なく見なくてはならない場面に往々にして遭遇する。その度にエレミヤ17:9は真理であることを確認するが、人の心はゆがんだ鏡のようである。

いろいろな面々が私たちの前を通り過ぎていった。不正な金を兄弟姉妹から集め、自分の事業につぎ込み、しかも返済を一切しない旅行会社社長。自分と合わない人に関して「あの人には悪霊がついているから気をつけよ」などの中傷を陰で行い、いろいろな人々に突然絶交状を手紙やFAXで送りつけるご婦人。女子高生と親に隠れて交際をし、それを戒めた私の言葉を呪いの預言として、そのために鬱病になったと訴えるやたらと神学には詳しい中年独身男,etc。

これらの方々は結局私たちから離れた後、私どもを、異端だ、カルトだ、と言い広めて回っているが、これもお決まりのパタン。こういった傾向はこの世の組織でも、例えば大学の学長選挙などに伴って怪文書が流れるなどよくあるが、このような話を見聞きするたびに、黒沢明の名作『羅生門』を思い出す。

お体裁の人を気持ちよくするメッセージで、人を"接待する”牧師もいるようであるが、真実に御言葉を語るならば、必ず人の心は霊と魂が切り裂かれ、その真実が暴かれる(ヘブル4:12-15)。一方でいろいろとややこしい神学論争で、これまた互いに異端のレッテルの張り合いをする先生たちもいる。神学的にいかに正しいかろうが、神の取り扱いがない、いのちに触れないメッセージは虚しいし、それは神に仕えるものではなく、人に仕えるものに過ぎない。このようなメッセージで人を集めて何千人教会などを作っても、神の前でいったいどのような意味があろう。

仏教でも救われるとか(私は禅で永遠のいのちが得られるとは言ってないですよ、念のため)、救いにはイエス以外のいろいろな道があるとか、未信者で死んだ人もわずかの善をなしていれば天国に入れるとか、こういった人間中心の教えが表立って目につくようになってきている。このような霊的偽りの状況において、私たちのような立場にあるとつねに、神に仕えるのか、人に仕えるのか、を直接に主から問い掛けられる。神の言葉を預かることの責任である。

人に仕えるのであれば、御霊の油塗りは必ずストップする。自分がどこにいるのかは、内なる油塗りの感覚で分かる。この塗り油にとどまること(1ヨハネ2:27)―ここにクリスチャンのいのちのすべてがかかっている。

電子出版の可能性

NHKの「クローズアップ現代」において活字離れによる出版業界の窮状をレポートしていた。同時に電子メディアによる読書形態が増えているということで、電子出版の可能性を指摘していた。

小生も今出版を考えている本の原稿がほぼできているのであるが、紙メディアでは原価が高くなる上、流通を通すと卸しや書店でサヤを抜かれ、諸経費がかさむ上、在庫管理も大変なので、ずっとペンディングだったが、電子メディアで提供できれば、1冊からでも領布できる。

事実、バイブルカレッジのレクチャー・テープはかなりのご好評をいただき、発送が追いつかないこともしばしばである。また主日のメッセージもこことFTPで公開しているが、これも好評である。さらにセレブレーション全体のテープも同様。真理に対する飢え渇きが強いことが手に取るように分かる。

レクチャーもネット上でオンラインで学ぶことができるように整備したいと思って、中々着手できないできたが、この夏休みに少し手をつけてみようと思っている。そのためには少々設備投資とノウハウの勉強が必要なので、若干ヨッコラサと気合を入れなくてはならない。

さてさて、元々怠け者の小生のこと、どこまでできますか・・・汗