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Re:真の礼拝

セルフ・オプセッションを抜けつつある私にとって、この間のメッセージは何ともいえない腹の奥からのうめきを感じました(なんと表現していいかわからない)。1歩、踏み出さなくてはいけない何かを感じました。

甘くまろやかな主

どうも今回の風邪は胃に来るようで、ジワジワと胃が焼ける感覚ですね。カミさんと長女も同じ症状です。

こういったサイトを開いているとイロイロと絡まれたり、ご批判を受けたり、告発を受けたりするのですが、それでも皆さんから証しのメールをいただくと励まされるのです。ひとつご紹介したいと思います:

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山小屋より帰還:T-2days

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福島は今日は快晴。付近の山をS兄弟と息子さんとで散策し、都路牛の焼肉で昼食。白い雪と真っ青な空のコントラストが素晴らしかった。原始生活の山の1日は文明で汚染されたこちらの3日分くらいの感じですね。じっくりといのちの洗濯ができました。

S兄弟との交わりも、「フォーカスはキリスト。残された人生、イエスの魅力を極めること」で決まり。ややこしい神学の議論ではなく、単純に御言葉のみ。いつか彼が下山した際にはメッセージをお願いしておきました。で、1時ごろ福島を出て、高速を飛ばして、今さっき到着。

途中、何となくコンビニで買った谷村新二の懐メロ風CDを聴いていると、ある映画の主題歌の『群青』が流れてきた。この旋律は日本人には実にしみる(※)この映画は戦艦大和の最期と、国のために捧げられた者として、年老いた父より先に逝く二人の息子たちの物語なのだが、ふとその映画の最期の場面が思い起されて、何と不覚にも涙が止まらなくなってしまったのだ。今流しているBGMの御父が御子を犠牲にすることと重なったのか・・・。最近歳のせいか、涙腺がゆるい。

そして今また大和の最期を描いた映画『男たちの大和』が上映中。これからカミさんとレイトショーに行って来ます。あすはメッセージもないので気分も楽なのだ^^で、来週は温泉というわけで、遊んでばかりだ。

(※)私はニッポン人は嫌いだが、日本人でいたいのだ。

Re:ご紹介

何だかステージママになった気分で面映いです・・・(>_<)
ちなみに、1ヶ月前ルークさんのメッセージテープを食べちゃって
胃と腸の大手術をしたのはブリンドル(黒い)の方のメグです・・・(*_*;
この子達は毎日朝から寝るまでルークさんの声か賛美の中で過ごしてます・・・(^^ゞ

アソビの病理(T-6days)

私のメッセージで、「霊と魂の分離」とか、「異なる火を炊かない」とか申しますと、何でも心配になる人がいるのですね。「今、自分は霊なのか、魂なのか」とか、「自分は今異なる火を炊いて裁きを受けるのではないか」とか・・・。分かります、この心理状態。要するにアソビがない!

ある聖霊派の人はすべてを聖霊様(私はこの言い方は苦手ですが・・・)に伺いを立てて聞き従うとかの導きを受けて、家から学校まで行くのに、交差点ごとに「聖霊さま、どちらへ行くべきですか」とやっていたら、学校に着けなくなったとか・・・。ほとんど笑い話的ですが、けっこうこの手のビョウキが多いのです。

皆さん、神の導きってそんなにタイトロープを渡るようなものだと思いますか?神は私たちをそんな緊迫感の中に置かれる方だと思いますか?断じてNO!神は安息の神であり、ゆとりの神であり、自由の神であり、私たちを楽しませて下さる神です。

人にはローマ書にあるとおり、自然の人であっても律法の教えるところをなそうとする心、つまり良心(岩波訳では「内奥の意識」)がありますし、さらにマラキ書2:15には「人には霊の残りがある」と書いてあります。

霊と魂の分離とかを神経質に心配するのではなく、普通の生活においてこの自然の感覚に信頼し、素直に従っていればよいのです。それは御霊の導きと矛盾しません。再建主義ではそれを認めませんし、自然に従えば獣姦を犯すと言うほどですが(相当に病的です)、それは聖書の語ることではありません。分かりますか?

霊と魂は相互作用しながら、私たちの心の動きを綾なしています。その時に御霊は私たちの良心と共に働かれるのです。パウロはこう言っています:「私の良心も聖霊によって証ししています」と(ローマ9:1)。これが私の言う「普通の生き方」です。自然ですし、力みなく、滑らかで、楽です。

ただ私たちの肉、特に魂の中に条件付けられたアダム的な価値観や生き方に対しては諸刃の剣よりも鋭い御言葉で手術を受ける必要があります。これによって真に霊のものかどうか見極めることができます。それをして下さるのはオペの達人霊的財前五郎であるキリストです。これは時に従って神が取り扱って下さいますから、安心して任せて下さい。

自分で取り越し苦労して、自分をクルシチャン状態に追い詰めている兄弟姉妹があまりにも多過ぎます。神は私たちの父・パパ・ダディ・お父ちゃんです!パウロはこう言っています:

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

「アバ、父よ」と呼ぶとき、内側が甘くなりませんか?神は甘美な方なのです!子たる自由をエンジョイしましょう!

今年の仕事は終わりました:T-7days

今日でセレブレーションは終了。来週は賛美と交わりの会です。元旦はお休み。一般的には元旦礼拝とかするのでしょうけど、私たちは家族で水入らずで過ごしたいのですね。というわけで、メッセージも新年8日まで更新いたしません。ワーシップは少し長めに収録して置きました。

大学の講義もあと残すところ3日。木曜日から週末までは福島のS兄弟の山小屋に泊まりに行きます。そして来週月曜日からは温泉と・・・。ここのBlogでもややこしい話もあったり(こういったサイトを開いていると変な人たちに絡まれるのは宿命かな・・・^^)、今年もイロイロありましたが、それぞれが主ご自身と主の真実を経験し知ることができたことは幸いでした。これだけが主とお会いする時まで残るものです。

すべては主を知ることのゆえに配剤されてあることを感謝します。

「間」の病理

分裂病の精神病理の専門家木村敏氏の著書に『間の病理』がある。要するに精神分裂病は人間関係の病理であり、「間」の取り方が狂っているというわけ。病んでいる人はこちらにその意図がなくとも、自分の「間」を犯されると感じると、恐れや妄想や幻覚を生じるのだ。私たちの「間」とはかなり食い違う。

私たちも対人関係で混乱を覚える場面は、下にも指摘したように、「間」の取り方を侵食される時なのだ。私の著書でも「間」とはある霊的な何かを指しているかもしれないと述べたおいたが、これはあまり見当はずれではなさそうだ。魂と霊が相互作用する緩衝領域のような印象を受ける。神学では「中間領域」と言い、私たちは「間」と言うわけだが、どうも同じ何かを指しているようだ。

山本七平氏が日本を「空気の社会」と呼んでいたが、「空気」も「間」と同一視できるかもしれない。さらに『甘えの構造』の土居健郎氏は、自身もクリスチャンであるが、「気」の精神病理を論じていた。この「間」とか「空気」とか「気」とか言う対象は、何か同一の「霊と魂の緩衝地帯」を指しているのだろう。

日本文化はすべからく「間の文化」と言える。和室や日本庭園は無駄な空間が実は何かを表現している。武道なども同じ。自分の「間」で、「気」を入れるとき、勝負が決する。

ニッポンキリスト教はこの「間」に対するデリカシーがほとんどない感じなのだ。もちろん信仰は、究極には「自分か、キリストか」の排他的選択を迫られる。これは一種のクライスである。が、それを超えた後はまたある種の「間」ができる。ところが教界ではこの「間」が何か人工的な作為的なものになっている。これがクリスチャンや、特に牧師たちから受ける違和感なのだ。

同じように、私の「間」にフィットする方は私のメッセージを受け入れて下さるようだが、私の「間」を嫌う人はまったく受けつけないようだ。ここにはある種の霊と魂の相互作用から生じる感受性が大いに関係するようだ。

いずれにしろ教界は「間が病んでいる」と言え、木村氏の理論によれば一種の分裂病状態と言える。