No.4235の記事

理解する、あるいは共有すると言う事

安倍さんはおそらく鬱病でしょうね。しかもかなり深刻かも知れません(→記事)。・・・と言った話を講義したのですが、学生が「どうして分かるのですか?」と聞くので、「表情で分かるよ」と答えると「ふーん、あたしは大丈夫かな・・・」。で、安倍さんは私より2歳上で、郷ひろみと麻原彰晃が1つ上で、私が51歳と言うと、いつもどおりの「うっそー」の反応が出て、ニンマリと言う次第(いい加減にしろよ、の声)。

その郷ひろみが最近、面白いCMに出ている。何のCMか忘れたが、車の中から松田聖子の歌を「ああ〜、わたしの恋はあ〜」と素っ頓狂なほどに歌うやつ。私たちは事情が分かっているので(皆さんも知ってますよね、松田聖子との一件・・・)、これが実に面白いのだ。ところが女子学生に聞いても、郷ひろみはかろうじて知っていても、松田聖子との件はまったく知らない。そこで延々と解説してあげると、「そうかあぁ、あのコマーシャルの意味がわかったぁ」と妙に納得してくれた。

ちなみにカラオケでも、私の定番は川島英悟の『酒と泪と男と女』とか、中村雅俊の『恋人も濡れる街角』、あるいは石原裕次郎の『みんな誰かを愛してる』でして、やや若い子たちとはズレがあるわけ。まあ、それでも楽しんではいますが(参考までに言うと、私のカラオケの腕前は82点程度・・・)。

かくして物事を理解すると言うか、ある種の価値観や感性を共有するためには、共通の体験と言う土台が必要不可欠なわけ。主イエスも、きわめて単純な日常の事物を用いて、神の国の奥義を説いたが、それは聞く側がどのような経験を持っているかによって、共有の度合いが違って来たのだ。

その意味で、イエスの喩えによる説き明かしは、単なる理論・理屈の次元ではなく、受け手の資質がモロに問われるわけ。喩えは人を選ぶのだ。30年間のナザレでの人間生活の中で、神が人として経験されたことがどのようなものであったのか、私たちがそれを味わえば味わうほどに、主の喩えの深みが分かるようになるのだ。人間としての生活経験もない、単なる頭で神学を学んだだけの偏ったキャラが多いこのニッポンキリスト教ではあるが、牧師先生たちも30年間ナザレで淡々とした人間生活を送る必要があろうかと感じている昨今ではある。

神が人になった―まさにこの奥義は偉大である。

Commented by DJ Jerry Eメール 2007年09月24日(月)22:20

もっと言うと、松田聖子は石原裕次郎と不倫をしていた。でも裕次郎が「いつまでも俺と付き合っていては幸せになれないよ」と言って、石原軍団の神田正輝と結婚させたんです。というのがDJ Jerryがある筋から聞いた噂です。あくまでも「ウ・ワ・サ」(~_~)

Commented by 粘着ねずみ 2007年09月25日(火)07:15

毎週、毎週、まあ、ねちねちと日本キリスト教会にからんでますね。あっぱれ。

Commented by 胡桃 2007年09月25日(火)20:12

人を批判するなら自分の正体を明かさないとフェアーじゃありませんよ。そのようなコメントはルークさんは必要でないと思いますので・・・。