No.1612の記事

正法眼蔵生死(改)私訳

私たちの生きること死ぬことにおいてキリストがおられれば、生死は問題ではなくなる。生と死の中に形だけのキリストを自己努力で求めることがなければ生死に惑うこともない。

これは夾山、定山と言われた禅師のことばである。道を開いた人の言葉であるから、虚しいものではない。生死から解放されたいと思う人、その願いをまず諦めよ。もし人が生きることそのもの以外にキリストを求めれば、まったく見当はずれのことをすることになる。ますます生死の問題を背負い込んで、解決の道を失ってしまうだろう。生きること死ぬことそのものに神の国があるのであって、生きること死ぬことを厭うべきでなく、神の国を他に願うべきでもない。この時に初めて生死のような二元的世界を離れることができる。

人は生きている状態から死に至ると考えることは間違っている。生とは一時の状態であって、その前と後があるのだ。だからいのちの御霊の法則の中には、(キリストを)生きることは(自己を)生きないこととなる。体の死も一時のことであり、その前と後の運命がある。そこで体が死んでも、それは決して滅びではない。生きることには生きることそれしかない。死ぬときは死ぬことしかない。だから、生きることそのものが生、死ぬ時がきたら、むしろ死を歓迎すべきである。嫌ったり、願ったりという二元的世界に生きることをするな。

私たちの生死とはキリストのいのちそのものである。普通の生活を嫌って捨てようとすれば、キリストのいのちを失うだろう。生死のような二元的価値感に拘泥すれば、またキリストのいのちを経験し損ない、キリストのいのちを阻害してしまう。何事も価値判断することなく、また愛着をとどめることがないとき、はじめてキリストのふところにとどまることができる。ただ自分の心をやりくりして思い図ったり、理屈をこねたりすることを止めなさい。自分の身も心もキリストの元に投げ入れるならば、キリストの肩から自然と行われて、これに従い行くとき、力を入れなくとも、心を消耗することもなく、自然と生死を離れて、内にキリストが形作られる。この時私たちの心には何もこだわりがなくなるのだ。

キリストが形作られるのにとても安らかな道がある。諸々の悪を生み出さず、生死にこだわる心もなく、人々のために憐れみを深くし、長上の人を敬い、下の人をあわれみ、すべてのことをめんどうだと感じる心もなく、自分勝手な願いをする心もなく、心に何のこだわりもなく、心配事もない。これがキリストの心である。これ以上のことをあれこれと追求することがないように。