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魂を否むこと=魂の真の救い

昨日の独り言にいろいろなメールによるご意見や証をいただきました。そのひとつに「魂を否む」とはどういう意味ですか、とありました。これはよく勘違いされるところで、下手をするとクルシチャンを生み出します。「自我を十字架につけて〜」というエキセントリックな説教になるわけです。

みなさんは風邪の引き始めの状態をご存知ですね。体がかったるく、ほわ〜っとして、ある種気持ちがいいのです。この時って、普段よりも心が穏やかになりませんか?これが魂を否むことです。この時には内的精神的エネルギー(たぶん生理的現象と関係しています)が風邪のために弱くされているのです。そこで魂の中に注ぎ込まれるエネルギーのレベルが落ちているのです。これが独特の平安と安らぎを生み出します。でも魂の機能は損なわれていません。私は私ですし、好みもありますし、物事も考えていますし。パウロとヨハネの文書の味わいが違うように、それぞれの魂の形は違ってよいのです。

お分かりになりますか?魂のエネルギーが落ちること、そのときに御霊の霊のエネルギーが魂を駆動するのです。魂の機能そのものは壊れることもありませんし、むしろもっと豊かに機能します。知性はクリアにされ、感情は豊かに、意志はやわらかくなります。魂を否むとは、私がなくなったり、別人格になるわけではありません。だからパウロは、

もはや生きているのは私ではなく、キリストである。今、肉にあって生きている私は、神の子の信仰によって生きている(ガラテヤ2:20)

と証しています。生きているのは私ではないのに、肉にあって私も生きているのです!御言葉を勝手に読み込んで、勝手な解釈(特に日本人は儒教あたりの匂いが強いです)で、自ら苦しめて、ビョウキに落ちているケースがあまりにも多いのです。その一方で、その反動かのように「ありのままのあなたでよい。すべては受け入れられている」式の砂糖まぶし的ヒーリング・ミニストリーがはやっています。そこには真の十字架がありません。十字架は魂のエネルギーを霊のエネルギーに切り替える働きをするのです。