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古くて新しい問題-三位一体論-

今週のメッセージではヨハネ福音書の「言」について語った。言(ロゴス)は子なる神であり、肉体を取られてイエスとして、神を証しされた。死と復活ののち、肉体(復活の霊の体)を持ちながら御座に上られたが、同時にいのちを与える霊として(閉まった部屋にも入ることができたように、物理的に時間と空間に制限されない存在)、御霊によって私たちの内に住まわれる。父・子・聖霊は互いに区別され同時に同在される3つの方であるが、本質を共有する(ホモウシア)ひとりの神である。まあ、これが普通の理解なのだ。

エホバの証人では、「イエスは神の子であって、神(エホバ)ではない」とし、イエスの神格を否定し、また「聖霊は神の力である」として、聖霊の神性と人格性を否定するわけです。アームストロングは父・子・聖霊は神の家族のメンバーであると言います。またウイットネス・リーは、「子は父であり、子は聖霊になった」とし、普通の三位一体論に挑戦する。リーはウォッチマン・ニーの後継者を自称するが、「体にはサタンが住む」など、多分に自分由来のものを混ぜている。彼が再建主義の富井氏のサイトでも取り上げられていて、富井氏はサベリウスの様態論としている。これはまったくそのとおりと思います。

で、面白いことは、再建主義によると、神の三者は「存在論的には三」、「契約論的に一」であって、「存在論的な一」ではないと主張しています(「本質において一」ではないと言うことでしょうか?)。またキリストは肉体をもって天におられるのだから、私たちの内に存在論的におられることは不可能であって、契約論的におられるだけであると。ほお、と新しい発見に感心していますが、「契約論的内住」とはどういう意味なのでしょうね?

同様に私たちもアダムの中に契約論的にいたのが、今やキリストの中に契約論的に置き換えられたとするのですね。再建主義のキーワードは「契約論的」。これは前に律法について対話したときと同じです。私的にはヘブル書にあるとおり、「アブラハムがメルキデクに十分の一を捧げたとき、十分の一を受けるべきレビも捧げたのだ。なぜなら、レビはアブラハムの腰にいたからからだ」という論証をそのまま理解しますが。レビはアブラハムの生殖細胞(DNA)を存在論的に受け継いだわけですから。私はアダムのいのちから、キリストのいのちへの転換。キーワードは「いのち論的」です。

三位一体論―これはなかなか古くて新しい問題なのです。私的には淡々と御言葉を語るのみですね。

・はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・・言は肉となった・・・
・あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。――あなたがたがそれに不適格であれば別です。
・神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。