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分岐点

昨日の雨でぬかるみができ、ややジョッギングがやりにくい今朝だった。

昨日の『シッコ』のムーアについて再建主義の富井さんは、「ムーアは社会主義者である」として警鐘を鳴らしている。私的には、前にも言ったが、このような問題ではある種のアンビバレンツな感覚を覚えるのだ。これは下の記事でも分かる次第。

その彼がこう書いている:

狭い道

(1)
ここ何ヶ月か、仕事がめっきり少なくなった。友人に聞いても、仕事が減っているという。かなりやばくなってきたので、祈っていただきたい。
・・・
今でも自分には、既存のシステムの中において居場所はないと考えている。
・・・
既存のキリスト教にも居場所はない。体制は、批判精神を嫌う。私はどこからも受け入れられないだろう。

(2)
 新しい情報を得て、それを信じ、しかもそれが真理である場合に、我々は、既存のシステムから飛び出たのだ。永遠に逆戻りできない道に入った。
 つまり、我々は新しい思想を身に付けた瞬間にアウトローになった!
 これはキツい道である。だから、孤立に耐えられない人間は、我々の文章を読んだ瞬間に「なかったこと」にしようとする。
 目の前に広がる道はあまりにも荒い。
 多くの友人を失うだろう。
 人々の目に我々は傲慢に映るだろう。
 無数の誤解を受けるだろう。
 サタンの猛烈な攻撃を受けるだろう。
 ガンガン足をひっぱられるだろう。
・・・
 献身の時に与えられた御言葉「自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしに従いなさい」は真実だった!
 自分を捨てる覚悟がなければ、献身なんてしてはならない。

(3)
・・・
 私は聖書信仰主義の活動をしている。
 だから、聖書を最高権威としない教派の人々を巻き込む教派横断的な運動をするつもりはまったくない。
 これは、支持者を獲得することを難しくする。実際、こちらが論を進めれば進めるほど、ついていけなくなる人が増える。
 しかし、思想というものは、徹底しなければ意味がない。
 いいかげんな思想は、いずれ批判を受けて捨てられる。
時間の審判に耐えられない。

う〜ん、大丈夫か知らん。その主張にはかなり同意できるし、共感できるのだ。前から言っているとおり、現在の日本キリスト教の中でこのようなスタンスを取っている彼にはある種の敬意を覚えている。

が、問題は彼が信奉する思想・主義である。もし間違ったものに奉仕するのであれば、せっかくの彼のスピリットも無に帰する。最近の彼は「バージョンアップした律法」と言う前に議論した際に私が用いた表現をよく使っているが、それはすなわち「いのちの御霊の法則」であることを見ていない!それはいのちの力によって大祭司とされたキリスト、メルキゼデク系の律法であり、私たちに自由を与える律法なのだ!

加えて私たちが信奉するのは「新しい主義や思想」ではない。初めから聞いていたことである。

初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。

これは「聖書信仰主義」の活動などでない。御子と御父のうちにとどまると言う霊的実際そのものなのだ。偽りの教えに扇動されることの代価はかくも大きい。

あなたがたは何をどう聞くかによくよく注意しなさい。

・参考:神学の罠

Commented by Luke 2007年08月30日(木)21:06

富井さんの8月30日の格差肯定論はまったくもって同意ですね。