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正しさと健やかさ

これは聖書的に正しい、正しくない、と言う議論がよくなされる。ある教団では賛美に楽器を使うのが聖書的かどうかで、有楽器派と無楽器派に分裂しているほど(カプセル化の最たる例!)。私はこれらの"正しさ"にはほとんど関心がない。私がクリスチャンを診る時の判断基準は、健やかさ、である。肉体的に、精神的に、そして霊的に健やかなこと。これは主の御心の中心にいれば、自然と成就すること。あれこれ、自分の主義や思想を主張する必要もないこと。

なぜなら「聖」とは客観的には「神への分離」であり、主観的には「健やさ」だからだ。この基準から診て、ニッポンキリスト教をビョウキだとする私の診断は、この業界の深部に関わり、エライ先生たちの行状を知っている人であればあるほど納得してもらえるはず。またブツブツとつぶやきつつ、自己責任を放棄し、人に粘着しストーカーになったりする信徒さまの状況を見てみよ。一言、まさにシッコ(Sicko)だ。

ヨハネは祈ってくれている:

愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいるその真実を証言してくれるので、私は非常に喜んでいます。

真理にとどまり、そのうちに歩むならば、必ずすべての点で幸いを得、健康になると約束されているのだから。この時、別に自分の正しさなど主張するまでもない。正しさの演技はできるが、健やかさの演技はできない。いわゆる表向きの「信仰信条」など、私はあまりほとんど信頼していない。私たちが求めるのは健やかであること。もっと言えば、仮に肉体的な病に罹る時でさえも、私たちは健やか(聖)であることができるのだ。Colin Urquhartは言っている:勝利にはふたつある、ひとつは病に対する勝利、ひとつは病の中での勝利、と。ヨハネの祈りは私のため、またあなたのための祈りである。

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本日は雨で、ジョッギングができず、やや不満が残るので(体が疼くわけ)、今は上がっているので、これから行って来よう。で、近くに綱島温泉と言う本当の温泉があるので、ちょっと入って来ようかと・・・。ガス爆発はだいじょうぶだろう^^9月には那須温泉を考えているが、とりあえず近間で・・・。

(やや早いですが、デザインを秋ヴァージョンにしました。)