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信仰と自信-相反するもの-

『不撓不屈』(ふとうふくつ)を観て、主人公がキレイ過ぎると指摘したが、それでもなお彼は国家権力による不当な圧力と7年間戦った。かつて戦争中、ニッポンキリスト教徒たちが文部省公認の日本基督教団へと集められ、「ようやく我らの悲願であった教会一致が成し遂げられ、我ら基督者は天皇の臣民として、自らの十字架を負って、己を投げ打って亜細亜の未来を開かんと欲す」と拍手(かしわで)を打ったことを想うと、飯塚氏には敬意を表したい。

この時期、真に信仰を守ったのは、有名な「美濃ミッション」といわゆる「ブラザレン」の兄弟たち、そしてエホバの証人(!)たちであった。そして彼らをもっとも追い詰め、傷つけたのは、国家と言うよりは、「キリスト者」を標榜する人々からの裏切りと迫害であった。おそらく今後信仰に対する圧力が起きる時も同じであろう。いわゆるキリスト教界の内部でのつぶし合いが起きると感じる。いや、ある意味ですでに起きているかもしれない。

主はフィラデルフィアの教会に対して叱責の言葉は一言もなく、「あなたがたには少しばかりの力があって、わたしの名と言葉を否まなかった」と賞賛を与えておられる。現今の「力」を求めるクリスチャンたちはよく心して聞くべきであろう。「力」を求めるならば、必ず戦時中の罠に陥る。主はまた言われた、「わたしが地上に戻る時、信仰の見られるであろうか」と。「リバイバル音頭」などは絵に描いた餅と言ったが、それは主ご自身がこう言われるからだ。主が求めておられるのは、「力」や「規模」ではなく、純粋さ。

私は迫害が起きた時、果たして信仰を告白し続けることができるかどうか、実はまったく自信がない。自分がいかに頼りにならないかは、信仰歴が長くなるにつれ、ますます確信が深くなるから。とにかく主に頼らなくてはすべてをなすことあたわず。わずかな力ではあっても、主の名と言葉を否まないこと、これだけをその時に備えていたいと願う。