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魂を否むこと

ジダンとマセラッティの一件は、どうも言った、言わないの水掛け論になりつつあるようだ。黒澤明の『羅生門』こそ、十字架から離れた人間の実存的状況。ジダンのMVPも剥奪の可能性も出てきて、何とも残念な限り。和解の可能性はないのだろうか?

(子供たちの世界でも、気に触ることを言われたら頭突きしようみたいな雰囲気が醸し出されつつあるとか・・・)

こういった事態が起こるとき、私はつねにイエスの十字架を思う。すべての呪いを飲んで、罪のない方が罪のある者のために罪とされて裁かれること(2コリント5:21)。主は言われた、「友のために自分の魂(原語)を捨てる以上の愛はない」(ヨハネ15:13)。

魂の張り合いこそがすべての争いの源。魂のパワーは限りなく強くかつ執拗。同じレベルの者同士であれば、決してどちらかが自分の魂を捨てることはできない。また私たちは罪ある者だから、完全に人の罪を負う事はできない。が、すべてを飲んで沈黙することは出来るかも知れない。それはきわめて甘美な経験。

特に幼くかつ病んだ者はこの魂の主張が激しい上に、しばしばその心に映る像は歪んでいる。彼らは自分の十字架を取ることは出来ない。私たちの主は十字架を完全に経ることができた。真に健やかな者が病んだ者のためにご自分の魂を捨てて下さった。ゆえに私たちの救いがあり希望がある。

今日自分の祝福を求め、自分の油注ぎを求め、自分の賜物を求め、自分の働きの拡大を求め、自分の評価を高め、自分が恵まれたい人ばかりになっている教界を主はどのようにご覧になるだろう。たぶん主が求めておられることは「得ること」ではなく「捨てること」。この病んだニッポンキリスト教界においては、むしろ悪評をいただくほうが健全だと言える。真理はしばしば逆説にある。禅語で言えば、「喜捨」であり、「大死一番」であろう。