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キリストの体とローカルチャーチ

[前置き:ローカルチャーチと言っても、ウイットネス・リーの定冠詞付きのものではありません。一般名詞です。]

英国のKingdom Faith ManchesterWorld Harvest Bible Church と一緒になり、500名のメンバーとして再出発することになりました。ビジョンの一致、互いの賜物と役割の認識の一致などにより、主が導いたわけです。今後Kingdom Faithの名称は消えて、WHBCの名として進んでいきます。これについては、その地域にキリストの体が建て上げられとしてColin Urquhartも大いにサポートをしております。(→詳細はこちら

どうでしょう、シマ意識の蔓延するニッポンキリスト教ではまずありえないことです。自分の教会の名称が消えてしまう!?それは敗北であり、挫折であり、牧師としては終わりを意味します。この世の合併においてすら、名前をどう残すかが大変なのです。三井銀行から、三井住友銀行、あるいは東京三菱UFJ銀行・・・と。これほどに名前にはこだわりがあるのですが、それは名前はまさに自己(Self)そのものだからです。よって名前が消されることは自己が消されること。私がColin Urquhartに多大な信頼を置く理由がご理解いただけると思います。

ここにローカルチャーチのあり方の模範があります。私たちはKingdom Faithを大きくし、建て上げるのではありません。名称は便宜に過ぎません。本質はそこに集うひとりひとりの兄弟姉妹、つまりキリストの体の肢体がキリストに根ざし、深く、高く、ただキリストの上にのみ建て上げられることです。ローカルチャーチはいろいろなあり方や名称で現れるでしょう。しかしキリストの体はひとつしかないのです!キリストはご自分の体を建て上げるのであって、特定の名称のいわゆる教会を建て上げるのではありません

Q.私たちはどなたの名の下に集まり、どなたの名を残すべきなのでしょう?

今回の件は大いなる励ましを与えるものであり、本質がどこにあるのか、私たち自身も心の動機を探られるのです。彼らに大いなる主の祝福がありますように!

 * * *

また台風が・・・。ジョッギングが雨でできないので、ビリーズ・ブートキャンプをみっちりと。タップリと汗を流して、綱島温泉へ。ここは畳もひいてあって、おっちゃん・おばちゃんが弁当持参で来ているのだ。なんか、こういう雰囲気って好きですね^^電気風呂は筋肉に実に効く。冷泉と温泉を繰り返しつつ、小一時間ほど・・・。

さて、明日はひとつの仕事始めであります。夏休み明けは私が教室に入ると、生徒の羨望と嫉妬の混ざった視線を感じるのです。こちらは真っ黒、あちらは真っ白と言うわけで。君たちも来春はサクラを咲かそう。と、まあ、年中行事ではあります。

 * * *

18-19日とまた温泉を思い立ちました。那須温泉というわけで。これで遊び納め、後は12月までまっしぐら・・・。

Commented by Mr.Sugar URL2007年09月05日(水)20:46

転載:

当然のことながら 大切なのはイエスがしばしば殊更に強調された
「うわべでなく実質、中身」なのです。
実質とは電気に例えるならば 電気のあのビリビリそのもの、
またその表れである光やエネルギーです。
それは要するに天の源から発し今では すぐそこに存在され
正に電気の様に私達人の生活の只中、家々の中にさえ入ってこられ
ようとする聖霊なるキリストご自身なのです。

しかしそれに反し 今現在多くのキリスト者はその実質からそらされ、
単に死んだ文字に過ぎない看板、信条、教義、名称、指導者等 
自らが判断する「正しさ」と言う「自分達のワク、容器や茶碗」に
魂が奪われている と言うのが実情ではないでしょうか。

大切なのは 中身実質である美味しいお茶を実際的に楽しむこと
であるのに 今ではそれは殆どそっちのけで「われらの茶碗こそ正しい、
これ以外の茶碗は神が許すはずがない」と茶碗の比較に憂き身をやつし 
果ては自分達の茶碗以外の茶碗でお茶を飲む人々を
交わりから遮断することさえするのです。そしてその果ては 
そうすることが 神への忠誠を保つことであり、自分達の純粋さや合一を
守る道であると固く思い込んでしまうのです。
しかしその姿こそが実質的な分裂分派ではないのでしょうか。

これは何と残念なことでしょう。
実は「正しい茶碗」などというものは無いのですよ。
神は復活のキリスト以外の総てを十字架に釘付けしたではありませんか。
茶碗のことなど どうでもよいです。
神は総ての茶碗を既に廃棄してしまったのです。

当然 自分達だけが正しいとする誇り高き人々はことさら
この「茶碗比較 茶碗依存傾向」が強いようです。
この笑えない茶碗の正、不正をめぐる抗争が この2千年来の
キリスト教史なのかも知れません。真にご苦労千万な話であると
言わなければなりません。

正にこれこそ「何が善悪なのかを知るべし」と言う神の敵が巧妙に
仕組んだ迷宮なのです。一旦そこに落ち込んだら
抜け出すのは容易なことではありません。
何と「正しさ」が生けるキリストに取って代わり
「純粋さと合一を守る」の程度がそのまま分裂の程度となってしまうとは!
「善悪、正不正を知る」なのか、或いは「命、神への依存・信仰」なのかは
今に至るも人にとって 最重要分かれ道となっているのです。

それでは真に必要な その命へ至る道とは一体何なのでしょう。
それは実に単純で本当に楽しいことなのです。
ただ直接あなたが あの命の木・神ご自身の所に行き、
実際的に その木の実(キリスト)をもいで食べることです。
こんなに楽で愉快なことは無いではありませんか。
あなたがその様にする時 実にあなたのいるその場所が 
本来神がもくろまれた楽園とさえなるのです。

しかし惜しいことに現在
人々はその木の実の素晴らしい味を知らないし、
その食後に どんな素晴らしいことが起こるかも殆ど経験がないのです。
その素晴らしいこと それは実は 神の人に対する目的の達成:
この地における神の敵(地を這うもの)に対する
人にある神の支配、キングドム・王国の現れなのです。


イギリスの兄弟達、そして全世界の兄弟姉妹が今後 
更に命の木の実を食し楽しむことによって
益々 命の健康(正しさではなく)の中を前進され、そして遂には
キリストの再臨・王国の全き現れを
真に促す人々となられんことを心から願ってやみません。