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神経験を阻む者は誰か

下の『国家の品格』において、西洋人と日本人では大脳の使い方が違うことを指摘したが、日本人にとって哲学や神学が「小学生にダブルのスーツ」となる理由もここら辺にあると考えている。だから、私はこういった議論には巻き込まれたくはない。

鈴木大拙は対象と自己の間に隙間のない経験、あるいは客観と主観が未分化の経験を「即非の論理」と表現した。「AはAにしてAにあらず」。臨済禅の公案と同じ。アリストテレス的論理学では決して理解し得ない。大拙の盟友であった西田幾多郎は「多即一の絶対矛盾的自己同一」と表現した。一方科学はこの主体と客体を分離しようとするが、その物理的実在ですら、例えば電子は波動にして粒子でもある。物質自体がド・ブロイ波として波動なのだ。かくしてミクロの世界では客観的観測自体が成立し得ない。客観と主観と言う概念が意味を失うのだ。

いわんや神経験をやである。神が三にして一であることができないわけがない。また主は言われた:「わたしと父がひとつであるようにあなたがたもひとつとなる」と。対象としての神と主体としての私がひとつになってしまう。多くの悩む人は神を対象化して経験したがることにその問題のルーツがある。私の経験は主の経験、主の経験は私の経験であることを信じるまではその葛藤が続くことだろう。このクリスチャンの葛藤もおそらく魂あるいはそれと同期する大脳の使い方によって各人ごと相当に異なるものであろうと推測する。

結局、神経験を邪魔する最大の障害は何か?自己である。昨今の様々の手法や教えの風の流行を見ていると、もっとも本質的な自己の処理を忘れていることが分かる。ここに十字架が働くのだが、イエスの十字架は教えても、私の十字架がない!なぜならそれは私の損失であるから。そしてここに時代の霊はつけ込む隙を見つけているのである。最近売れ線の本の中に「私の十字架」を語っているものがあるだろうか?おそらくこの時代の霊による大いなる業(スペクタクル)は見られるであろう。が、それはメガフェイク。そのような壮大な業を見たければエホバの証人の大聖会に参加すれば分かる。いや教界の聖会でも、か?

何度も言っているが、今後キリスト教界は素晴らしいリバイバルどころではない。サバイバルの問題なのだ。

こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。

Commented by kamekame 2006年08月31日(木)00:53

>最近売れ線の本の中に「私の十字架」を語っているものがあるだろうか?

最近というのが10年くらいの範囲でみますと、

Lukeさんの「真理はあなたを自由にする」では明確に私の十字架が語られているのではないでしょうか?しかも出版から現在に至るまで、すごく売れているのではないのでしょうか?最近も広告を見たように思えます。こんなに長年に渡って広告が出続ける書は珍しいのではないでしょうか?私も初版からの愛読者ですが、今も読んで新しく感じます。感謝です。

またニールアンダーソン氏の著作もそうだと思います。

また、ファミリーネットワークから出版されているスティーブマクベイ氏の「恵みの〜」シリーズもニール氏の主張とかなり重なっているように思います。

私が思いつくのはこれぐらいでしょうか。