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粘着の精神病理

人はなぜ人に粘着するのか。粘着とは拘りである。拘りとは力動精神病理的には、リピドーのカセクトが解消されていない問題。つまりそこにはエネルギーが蓄積され、緊張感が持続しており、これが不快感として意識される。そしてしばしばそれを本人は認めたくない。これが自己欺瞞。そこを人から指摘されると、これが粘着を生む。

つまり粘着する部分とは、すでに自分で変だ、と前意識的には分かっているのに、その事実に直面することを避けている領域。自分を自分で裁いているのだ。だからこちらが問うてもいないのに、自分から弁明を始める。ウソを隠している人が「自分はウソをついてない」と言い出すのと同じ。すなわち人の意見や主張に対して論じる形を取るものの、実は自分の内の真実の声に対して戦いをいどんでおり、いきおいその葛藤は自作自演的となる。なぜなら自分の心の声と戦っているだけだから。サルが鏡に映った自分に戦いを挑むと同じ。

かくして以前にも書いたが、いわゆる議論においては相手を論駁する必要はない。相手のその葛藤・病理性をあぶり出せばよいわけ。

しばしば「クリスチャン」と称する人々は、聖書の御言葉に躓いており、御言葉をそのまま受け入れることができない場合、自分を否むのではなく、自分を助けるために、神学や特定の解釈の形を取って、その葛藤をカモフラージュする。よって彼らの批判は、自分の心の声に対する批判であり、御言葉に対する批判となるので、こちらとは無関係となる。かくして彼らは神の言葉と延々と論じ争う。これが閉鎖的倒錯空間「2ちゃんねる」あたりで見られる精神エネルギーの大いなる空転の病理である。いずれにしろ、ニッポンキリスト教界はついの住処にあらざるなり。

なお、ストーカーについてはもう少し別の要素が入るので、これは後ほど(あの学生大丈夫かな・・・)。