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得度

本日もプールとサウナはなし(体は疼いているのだが・・・)。長女の大学の卒業式で、朝から着付けやらパシフィコ横浜の国際会議場への移動やら、昼食抜きで4時過ぎまで、ややグロッキー。これで一つの仕事が終わった・・・。うれしいような、さみしいような・・・。

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アップロードファイル 40KB最近、俳優の保坂尚希氏が得度して出家したとのこと。何でも7歳の時に両親が自殺をしたようだ。高岡早紀との離婚会見などよく分からない部分があり、彼には何か屈折したと言うか、内側に忸怩たるものを抱えているように感じていたが、今回自ら真実を語られ、やや同情を覚える次第。

私も禅にはまっており、静岡臨済寺の倉内松堂師と一緒の写真もご紹介したり、永平寺76世管主秦慧玉師と間接的に関係していることも前に書いた。と言うわけで、実は私も得度を考えたこともあったのだ。今でも雲水には憧れがあるし、禅寺の生活には実に心惹かれる次第。彼らは野心に満ちて脂ぎった牧師先生よりもはるかにサラッと生きている。一言で言えば、捨てる生活。清々として。

元々仏教では礼拝対象はない。各自自らが行を積んで自分の内なる仏性に目覚めること―それがすべて。道元の『正法眼蔵』によると、この仏性は

釋迦牟尼佛言、一切衆生、悉有佛性、如來常住、無有變易。

すべて衆生・事物が有している、が、

修せざるには現れず、証せざるには得ることなし。

永平寺の生活はすべて規則尽くめである。前にも書いたが、朝4時に起きて、唯座る。これを「只管打座」と言うが、悟りだとか何とかを何も求めないで唯座る。そして作務。食事作法もトイレの入り方、風呂の入り方など、すべてが規則あるいは作法に従った生活。これらは「典座(てんぞ)教訓」・「辧道法(べんどうほう)」「赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)」など。目指すは

自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。迷を大悟するは佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。佛のまさしく佛なるときは、自己は佛なりと覺知することをもちゐず。しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく。

身心を擧して色を見取し、身心を擧して聲を聽取するに、したしく會取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を證するときは一方はくらし。

佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。

身心脱落、脱落身心。この時展開する主観的時間論は

たき木ははひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後裁断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり、かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生(しょう)とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは仏法のさだまれるならひなり、このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。

前後裁断せり。私たちが生きることができるのは、後悔や傷の残る過去でもなく、不安や思い煩いに満ちた未来でもない。ただに生きる。大拙的には「アブソリュート・ナウ」。さらに

生死のなかに仏あれば、生死なし。またいはく、生死のなかに仏なければ、生死にまどわず。

善と悪、生と死と言った二元論を越えたところに生きること。

で、昨日、大学の構内にでっかい荷物トラックが入っていたのだが、そのわき腹に、何と

前後裁断、今に生きる!

と大書してあり、驚いたついでに、どんな人が乗っているのか思わず運転台を覗き込んでしまった。その会社はhttp://www.quality-no1.com。ただ今工事中だそうだが、明らかに道元が入っている。

しかしいかがでしょう、禅僧たちは、過去の後悔に生き、未来を不安がるニッポンキリスト教徒たちよりはるかに清々とした唯今の生を楽しんでいるのですよ。(写真は永平寺)

Commented by Luke 2007年03月24日(土)21:56

もちろん、私たちはアブソリュート・ナウに、永遠のあるという方と共に、いや、そのうちに生きるわけ。この方はつねに永遠の現在―あってある。この方と私はひとつ。

Commented by イザヤ・ベン・ハー 2007年03月25日(日)08:44

「前後裁断」とは実数論の「デデキントの切断」と同じ様なものでしょうか?

Commented by Luke 2007年03月25日(日)12:09

これは面白いですね。有理数は稠密(任意の二つの有理数の間には可付番無限個の有理数が存在する)ですが、連続ではありませんから、実数連続体を切ったとき、断端の両者が有理数であることはない(その有理数ではない端が無理数で、かくして稠密性が連続性に至るわけ)、と言うのがデデキントの切断による実数の定義ですね。

物理学的時間論はこの実数の連続に基づいて展開されるわけですが、道元の言う「前後裁断」はニュートン的物理的時間ではなく、主観的時間論だと思います。「今」になり切ると言うか。鈴木大拙は「今に切り込んだ永遠」と言う言い方をしていますが。