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羅生門

黒澤明の名作『羅生門』は、ひとつの事件に遭遇した3人の当事者の証言が食い違い、それぞれ自分に都合のよい内容になるという人の心の闇を描いた傑作である。そこに起きた事実はひとつであるが、人の心を経て投影されるうちにその内的世界像は歪んでくる。

今回の石原大臣と藤井総裁の話も面白いことに、まったく異なる証言内容となっている。しばしば私もそのような場面に遭遇する。人との接触が避けられない立場にあり、人に対して叱責もする必要が出る場合も多々ある。よってある種の人々にとっては私は極悪人と映ることであろう。

しかしクリスチャンの場合、決定的な証人がおられる。主イエスである。事の真実において両サイドから矛盾する話を聴いた場合、私は霊においてどちらに主の臨在があるかで判定する。偽りには暗い闇の感覚が伴う。神の臨在を偽ることはできないし、臨在があれば内側の明るさが感じられる。

噂話で揺るぐ人々は心が定まっていないからである。固く主に結ばれ、主の臨在を測り縄にするとき、私たちは事の真偽は明白である。霊は人の心の奥深く探る。心を病んでいると言い訳する人は当たり前が当たり前でなくなっている。これを真綿でくるんだように当たり障りのない腫れ物に触れるような対応をすることによって、ニッポンキリスト教には当たり前でないことがはびこっている。病んでいるが、自分では病識が欠落してる。

リバイバルはまずそれが暴かれることから開始される。「裁きは神の家から始まる」とあるとおりである。聖霊の原爆が落ちる前に、神の手順をキチンと踏む必要がある。よって私は先のリバイバル新聞の"大預言"は偽りであると分かる。着々と、淡々と主の前に歩むこと。ここから外れて、このような"大預言"に従って果たしてどこへ向かうと言うのか。ただ主の大庭にとどまるのみである。