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主のサムライとは

昨日の日記に早速、典型的ニッポンキリスト教徒から御質問をいただきました。「サムライ」とは右翼的ではないか、と。やれやれ、この方の論では聖書そのものが右翼ですね(笑)

聖書には何とあるか見てみましょうか:

Uテモテ2:4 兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。

Tコリント9:26 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。

Tテモテ1:18 私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。

Tテモテ6:12 信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。

Uテモテ4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

ヘブル10:32 あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。

ヘブル11:34 火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。

現在の「あなたは神のVIP、世界でオンリーワン、ただひとつだけの花、その花をきれいに咲かせましょう」といった「マショマロ福音」はヒューマニズムに過ぎません。こんな台詞はこの世の代表であるSMAPに歌わせておけばよろしい。

まことの福音に応答するには覚悟を要求されます。つまり「あなたは主イエスのために死ねますか?」と。クリスチャンの美的感覚は「散り様」にこそあります。私たちの「花」は私の「死」の上に咲くのです。

あなたがたは死に至るまで忠実であれ(黙示録2:10)−イエス・キリスト