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自分の言葉を持つこと

オウム事件の特番があった。中でも林郁夫受刑者のマインドコントロールからの解放のプロセスがよく再現されていた。

カルトで"縛り"に会うと、一番の特徴は自分の言葉を顕著に失う。教祖や指導者の言葉の文字通り"オウム返し"となる。この時独特の違和感("平板さ"と言うべきか)を感じさせるようになる。ちょうどガラス張りのケースに入られているように、その人の姿は見えるが、その人に触れることができないように感じられる。一枚ガラスが間に入ってしまう。

正直に言えば、ニッポンキリスト教と触れていて、同じ感覚をつねに覚える。例えば牧師のメッセージである。ほとんどが同じトーンと内容、喋りぶりから言葉使いまでみな同じである。私のMSGでも時に真似をするが、簡単に真似できるほどにある種の同じ臭いを醸している。そしてまた信徒はその受け売りをもっともらしく繰り返すのみ。

この日記を読まれた典型的ニッポンキリスト教徒の方が、「この日記を読むとルークさんという人が見えてしまう」と言って来られた。これには正直驚いた。日記なのだから見えて当たり前である。この人は何を私に期待し、何を求めているのか。パウロの文書にはパウロらしさが、ヨハネの文書にはヨハネらしさが満ちている。

私は超霊的な"霊能力者"や"聖人"にはなりたくないので、あえてこの日記では普段着の言葉を用いている。この手のWebを開き、霊的な事を書いていると、何時の間にか"ルーク像"が勝手に仕立て上げられ、一人歩きを始める。このような時、私はあえてその像を壊す。人がある期待を私に抱くならば、あえてそれには応えない。私はニッポンキリスト教の牧師像とはまったく異なることを意図している。

ニッポンキリスト教では牧師は信徒が期待する役割を演じ、信徒は牧師に求められる役割を演じており、ひとつの人工的な言葉を共有するのみで、互いの実体に触れることができない。共にガラスケースの中に生きている。

私から見て、すでにニッポンキリスト教はほとんど準カルト化している。