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「白い巨塔」と「白い虚塔」

テレビでもそろそろお花見の話題がちらほら。うちの前の県立三ッ池公園も桜が有名であるが、まだまだつぼみが固い。

この休みのうちに何とか私の部屋を整理しようと日々頑張っているが、今日はトランクルームから6箱分の本を戻せた。壁一面の書棚はさすがにまだまだ収容力がありますね。あと20箱分、何とか来週中にはと思いつつ、動かぬ(動きたくない?)体を叱咤している。

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「白い巨塔」は関西で40%近い視聴率とか。確かに思った以上によくできていた。田宮版と違う別の作品として鑑賞に耐えた。裁判の論点などもインフォームド・コンセントに重点を置くなど、現代の流れをよく汲んでいた。唐沢君はかなり評を上げた模様。

ひるがえってニッポンキリスト教はどうか。「白い虚塔」になっていないか。真の福音は自己の死を語る。財前と同様に治癒見込みのないステージであること、よって十字架の死と新しく生まれることしか希望がないことをインフォームド・コンセントすること−これが福音である。

「オンリーワンのあなたが高価で尊い」などは、財前が言っていた台詞で一蹴されるだろう:

けい子:「五郎ちゃん、やせたねぇ〜」
財前:「ほんとのこと言ってくれてほっとするよ。みんな顔を引きつらせて、よくなった、とか言うからな。」

福音はまったく希望がないことと同時に、十字架にのみ希望があることを告知することである。「あなたは徹底的にダメだ!このままでは神に見放される!」と告げることである。信じない者はすでに裁かれているのだ!昨今のVIP福音などは世の人からすでに見抜かれている。末期ガン患者に対してお体裁は通じまい。真実を語ることである。

パウロ:「私は十字架につけられてキリスト以外に語ることをすまい・・・私たちには十字架以外に誇るところが断じてあってはならない。」

ジーザス:「人は御霊によって生まれなければ神の国に入ることはできない。」

ニッポンのリバイバルはまず徹底的に自己に絶望することからはじまる!