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人が求めるもの

サタンの誘惑のチャネルは、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りの3つである。肉体的欲求をサタンは刺激し、それを自らの方法で満たすことが罪である。また見栄えのいいものを追求することも人は大好きである。さらに自分の達成や自分の成果を誇る。

しばしばよく聞く言葉に「聖霊充満」なる単語がある。これを聞いて、私は非常に不思議である。いったいこれは何を意味しているのか。私たちにはすでに聖霊が与えられている。それは信仰によって得たとガラテヤ書に書いてある。

よく「油注ぎを受ける」と称して、「注ぎ、注ぎ」と強迫観念のように騒ぐが、これも不思議である。すでに注がれている!聖霊は部分部分に分けて、ある人には500cc、ある人には1g、ある人には10gと注がれる方ではない!聖霊はひとりのパースンである。今の聖霊派の求め方はエホバの証人の聖霊論的である。何かの力、パワーとしてその注ぎを求めている。

御霊はひとりの<方>である。この方は自己主張をされない。新約においては単なる神の霊として働く方ではなく、イエスを証する霊である。イエスと御霊を分離してはならない。イエスと御霊はひとつである。私たちが御霊を得たことは神を得たことである。すでに三一の神が私たちのうちにいて下さる!すでに私たちはキリストにあって満ち満ちているとコロサイ書に書いてある。問題は注ぎを受けるかどうかは無く、信じるかどうかである。

目に見栄えのいい"油注がれた器"を求める昨今の状況は、実は不信仰の証明であり、貧しさの証明である。外なる器をありがたがる彼らの姿勢は、実は彼らの内側の貧しさと霊性の貧弱さを証しているだけである。

イエスは決して見栄えのいい方ではなかった。仰々しい自己アピールもされない。今の聖霊派諸氏は、イエスとベニー・ヒンが立っていたら、果たしてどちらに群がることであろうか?