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「聖霊様」or「イエス様」?

ある聖霊派の方が私のメッセージやKFMのワーシップではすべてジーザスにフォーカスしていることで混乱したと言ったきたことがあった。

彼女曰く:「私はこれまで、三人の神様にそれぞれに義理を忠実に果たすために、お父様、イエス様、聖霊様、ありがとうございます・・・と祈ってきたんですが・・・。これから誰に祈っていいのか分からなくなりました。」というわけ。おこられるかも知れないが、正直言って、心の中で笑ってしまった。なるほど、彼らは三神論に落ちている。

神の三一について二つの異端がある。ひとつは「三神論」、一つは「様態論」(ひとりの神があるときには父のペルソナ(面)で、あるときは子のペルソナで、あるときには御霊のペルソナで現れる)である。

今、神と人の仲保者は人なるイエスただおひとりであるとあるとおり、この受肉し、いまだに人であり続けるイエス(イエスは人間性を脱ぎ捨てて天に昇ったのではない)において回復され栄光化された人間性に私たちは与るのである。鍵は人間性である。「霊的になる」ことや「聖化される」ことは、「人間になる」ことである。霊能者になったり、仙人になることではない。人になるのである。

イエスにおいて回復され栄光化された人間性は、父を100%表現していた。よってこの人間性に与るとは、神の御性質に与ることである(2ペテロ1:4)。これは「神になること」ではない。人間性において神の御性質に与ることである。これを初穂として成就された方がイエスであり、そのイエスのなされた事実を私たちに伝達し、実体化してくださる方が御霊である。

ジーザスにフォーカスすることは実は神の三一をすべてあがめることである。聖書はアダムとエバの結婚で始まり、子羊と新エルサレムの結婚で終わる。主賓は誰か、子羊である!神の永遠のご計画は、イエスにあって受肉した神が、花嫁を得ること。これが結婚の奥義である(エペソ5:32)。かくして神の幕屋が人と共にあり、神と人が共に住まう(黙示録21章)。

ジーザスを知ることは永遠のいのちをもつこと。ジーザスをあがめることは三一の神をあがめること。ジーザスに栄光を帰することは三一の神に栄光を帰すること。かくして私たちのセレブレーションは毎回次の祈りで終わる:

神に栄光がありますように・・・・In the mighty Name of JESUS!!!