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空を打つ拳闘をしない

きょうはトランクルームから4箱戻せた。壁の書庫はほぼ飽和状態。あとはリビングにもうひとつ書庫を備えて、残りも何とかなるか。しかしよく貯めたものだ。前に一度ダンボール10箱ほど捨てたのになあ・・・と溜息。

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息子がボクシング・ジムに通うようになったが、けっこうスジがいいらしく、すでにシャドーではなく、ヘッドギアをつけてスパーリングをやっているらしい。このジムには世界チャンプもいるので、けっこう彼のモデルとなっているようだ。

パウロの書簡はローマ書のように学術論文的なものから、牧会を指示した具体的書簡まで実にレンジが広いが、しばしばローマ兵の装具や、コロセアムで行なわれていた当時の拳闘を見て、それを用いて真理を解いている。そして私の好きな彼の言葉に「空を打つ拳闘はしない」がある。

ニッポンキリスト教の多くの人がどうも体を壊したり、家庭を崩壊させるほどに強迫的な"奉仕"をしているようだが、その実はあまりにも貧弱である。一般に何事によらず、達人は法則をつかみ、急所をつくことがうまい。力はほとんど不要であり、法則に則って、ポイントをつけば、か弱い女性でも大男を倒せる。

しかも達人の動きには無駄がない。ガチャガチャした動きは下手の証拠。ほとんど音もなく、風のように一瞬でケリをつける。かつての日本では、剣道、茶道、華道などの"道"において、この無駄のない動きを追求した。ここに禅が入り、「剣禅一如」と言われるとおり、禅が求める自由に流れる心が鍵であることが分かった。柳生但馬守も「活人剣」において、「およそ心の病は、心が留まることによる」と喝破している。

どうもニッポンキリスト教と触れている感じるのは、騒がしい掛け声と大そうなデモンストレーションだけで、この爽やかに流れる心がほとんど感じられない。ガチャガチャ、ガシャガシャ・・・あっちに油注ぎのある○○師、こっちには癒しの賜物をもつ○○師・・・と。そのようなものを求める以前に、自分の心を見つめる必要がないか?多くの悩めるクリスチャンと接している感じるのは、彼らの魂がきわめて粘着であること、そして自分の心に対する洞察がほとんど欠如していること。

達人の動きは静かであり、爽やかであり、流れるようであり、心がどこにも留まらず、自由に解放されている自然体である。私たちクリスチャンはさらに爽やかなキリストの香が立ち込めれば、これこそ急所をついている。無駄な労力を消耗しない、しかし主に対してはナルドの香油を無駄に注ぐこと。

聖霊派諸氏が血眼になって求める"注ぎを受ける"のではなく、注ぎ出すことである。御霊のいのちの流れは私たちの腹の底から川々となって流れ出ると主は言われるのに、なぜか聖霊派では反対である。その心の動機が急所を外しているのである。自分の心を明け渡し、空を打つ拳闘をしていないかどうか、御霊によってその動機を探ってもらう必要があるのではないか。

私たちはすでにキリストにあってすべてを得ているのである!