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パッション考(3)

私はいまだに観ていない。もしかするとDVDでも観ないかもしれない。今回Salt氏の洞察を読んでますますそう感じた。彼は言っている:
http://app.memorize.ne.jp/diary/24/57910/

以下引用----------

体験というのは単純なものだ。そして、深く刻まれるものだ。こういう個人的な体験をそれぞれに自分のものにしてこそ、牛の乳のやわらかさやあたたかさについて語ることが可能となる。牛の乳の「やわらかさ」「あたたかさ」といった記号としてのことばが、内実を伴うのは触ったことがあるという経験であって、たくましい想像力やたくみな表現力ではない。「記号としてのことば」から、内実を無理に搾り出すと「パッション」のような映画が生まれる。

私は牛の乳絞りをしながら、なぜパッションにキリストの香りを感じなかったのか、その理由がはっきりわかった。私がスクリーンのから感じ取ったのは、傷ついた自己をキリストの打ち傷に投影するメル・ギブソン自身の自己憐憫の臭いだったのだ。

ヨハネが証言したのは、じっと見て手でさわって確かめた「いのちのことば」である。記号から想像した贋物ではない。本当か嘘かは触った人にはわかる。

引用終了--------------------

記号化し、ヴァーチャルリアリティ化した世界。そこにはいのちの実質がない。これは別に「パッション」に限らないが。私たちはきわめて危うい世界に住んでいる。