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自己愛の克服か、受容か?

まず、カレッジのテープは現在注文が殺到し、処理が遅れています。お待ちいただいている方々にはご了承をおねがいします。

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コフートという精神分析学者がいる(いた)。彼は、フロイトが克服すべき病理として指摘した自己愛(ナルシシズム)をむしろ積極的に受け入れて、互いの自己愛を認め合うことを提唱している。これは日本的に言えば、互いの甘えを積極的に認め合って、受容していこうと言うことになる。

現代のアメリカでは結構流行している考え方である。競争社会では自分の身の置き所がなくなるように感じてアイデンティティ・クライシスに落ちる人が多いからであろう。ちなみに日本の企業もいわゆるリストラで合理化を図るアメリカタイプの企業よりは、終身雇用を守る企業の方が業績が回復していると言う。私はニッポンの社会はアングロサクソン的な弱肉強食は耐えられないであろうと考えているが、その実証でもある。

日本はかつは藩(殿様)が人生の面倒を見てくれて、粗相がなければ生涯が保証された。明治維新以降は天皇であったり、企業がその役割りを果たし、高度成長期も一生を企業にあずけるサラリーマンによって成し遂げられた。ここに企業がある意味で人生の"母親"の役割を果たしており、甘えが潤滑油となっていたわけである。

90年代に入りバブル崩壊と共に、過酷なリストラにより人生の糧ばかりか、自分を否定されて自殺者が年間3万人を超えている。一方で目的を見失ったフリーターが417万、ニートだったかな、要するに親に寄生している者が63万人(10年前の1.6倍)、引きこもりが100万人、失業者数370万人。これがニッポンの現状だ。効率だけを追求し、人の価値を金で計ってきたその結果である。

現在真の意味で個人の価値を回復する必要があるし、良い意味での自己愛を認める必要もある。主は「自分を愛するように人を愛せよ」と言われた。自分を愛することができない人は、実は他人を愛することができない。しかし、だからと言って、現在のニッポンキリスト教におけるオンリーワン的流行は偽りである。なぜか・・・。

そこに十字架がないからである。主はまた言われた、「自分を否み、自分の十字架を負ってわたしに従え。自分の魂を救おうとする者はそれを失い、失う者は得る」と。これをメッセージする人が今日ほとんどいない。むしろそのようなことを語ればただちにカルトのレッテルを貼られる。

しかし、真理は自分を救う者は自分の魂を失った者であり、自分を愛する者は自分を否んだ者である。真理はしばしばこのような逆説に満ちている。そしてこの逆説を解くのが十字架である。十字架を経ずして、自己愛の受容を唱えるから、現在の教界の様を生んでいる。今、真に必要なのは、総ての不条理を解く十字架の経験の回復である。