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正しい権威に服すること

本日のぼやき:500枚の試験マークシートの採点をしているのですが、わが大学の私の上にいます権威はこういったところにあまり金を使いたくないらしく、シート・リーダーが古くて読み取りミスの続出。やれやれ。金曜日にあと200枚あるのだが・・・汗 しかも成績報告書はすべて手書き!夏休みはいつ来るのかなぁ・・・・

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さてさて、私をカルト教祖として訴えていた御仁によると、Dr.ルークは妄想の世界に住み、権威を否定しているくせに、自分は権威風を吹かせているというものであった。実際にも、一部の教会のカルト化が話題となっており、この権威の問題が槍玉に上がっているようである。

ここに神の教会に対する二面からの敵のアタックを見ることができる。一面、一部の牧師が真の権威ではなく、権威主義を強要することにより、その下にある人々がある種の霊的搾取を受け、いわゆる「権威嫌い」に陥る。私が批難しているのは権威ではなく、権威主義である。
 
かくしてもう一面では真の権威に対してすら「羹に懲りて膾を吹く」状態となり、下手をするとあえて権威を否定し、あえて逆らう者も出る。彼らは自由を放縦とはき違えている。彼らは糸の切れたタコのように風に吹きまわされる。

しかるに聖書は明確に権威の系列を語っている。夫婦関係におけるそれ、親子関係におけるそれ、職場の人間関係におけるそれ、国家との関係におけるそれ、そして教会の中におけるそれ・・・。

実は正統な権威に服することは安息と平安を生み出す。安心して任せておれる権威を自分の上に得ることは大きな霊的祝福である。私はすでに90年から英国のColin Urquhartの権威に服しているが、毎年平安が増し加わっていることは明確に証しできる。彼自身が平安の中にあるから、私にもその平安が伝染してくる。かくして権威に服することは安息と平安に留まること、このとき自然と頭(=キリスト)に注がれた油が垂れてくる(詩篇133篇)。あちこちの"油注ぎの器"を追っかける必要もない。

この真の意味で権威に服することは、実は自立していないとできない。自立しないでただ「あなた任せ」にして、自分の期待が裏切られて傷ついた〜とわめく御仁がいるが、何のことはない甘えの病理に過ぎない。幼稚である。従順と盲従はまったく異なる。まず神の前での単独者として自立しているゆえに、誰が真の霊的権威を帯びているかを自ら判断して、自らその権威に服すことができる。この関係は国家と国民も同じである。現代のニッポン人はあまりにも国家に甘えている。

ニッポンキリスト教界を見て、あまりにも幼い者たちが勝手気ままな主張を繰り返しているのを見ると、60年代の学生運動を彷彿とする。彼らは青臭い主張を持って既成の社会(=権威)を否定し壊したが、何のことはない何も生み出すことはできなかった。現在の教界も同じ。確かに権威主義を振り回す牧師もいることは事実。しかしもっと大人として対応できませんか。どうも社会より40年は遅れている、ニッポンキリスト教界は。子供過ぎる。いわゆるリバイバルが起こるはずもない。

成長しましょう。神の前にまず単独者として立つことによって。そして互いの関係を、ひとりひとりが自立することによって、建て上げていきましょう。政治家は国民のレベルを超えることはないし、牧師も信徒のレベルを超えることはない。逆に言えば、政治家を見れば国民の質が分かるし、牧師を見れば信徒の質が分かる。サルは鏡を見て、その中に写った自分に攻撃を仕掛けると言う(ヤコブ1:23参照)。

互いの関係において油が塗られる時、真に服することができる。真に服した者は権威を帯びる。これは別に職制によらない。その権威はその人の醸す安息と平安の雰囲気によって証明される。