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勝つと思うな、思えば負けよ

温泉が危ないっ!と、情けない話ですね。次から次へと暴露されています。温泉好きの私としては、どうやって対応するか、少々困惑していると同時に、いささか寂しい気持ちです。牛肉に、鶏肉に、野菜に、車に、政治に、加えて巨人まで裏金工作。どこもかしこも偽りのラベル。右も左も真っ暗闇じゃござんせんか。金ですべてを計る戦後のニッポンの哀れな顛末です。

http://www.kingdomfellowship.com/Column/flowing1.html

「地の塩ミニストリー」のSalt氏(→http://www.memorize.ne.jp/diary/24/57910/)が何とモンゴルへ旅立たれた。彼はこう言っている:

「モンゴルの草原に住む人たちには住所がない。ゲルの中にはトイレがない。老人たちにはヘルパーもいない。カウンセラーもろくにいなければ、病院も警察も簡単に連絡のつかぬところで、そんなに不自由なく暮らしている。私たち日本人がどうしても必要と思いこんでいるものなんて、本当はいらないもののほうが多いのかも知れない。」

物事はややこしい話にはたいてい偽りがあると見た方がよい。やけに論理だっている話や、見かけは整合性のある話など、どこかにヤラセがある。官僚の作文などはその典型。聖書預言解釈や神学も同じ。言語明瞭にして意味不明。人を忘れている。人間という存在は矛盾に満ちたものだからだ。その矛盾をそのままに受け入れる、それにはいわゆる知性のフィルターをはずす必要がある。

禅の大家鈴木大拙は「AがAであり、Aでない」という「即非の論理」を唱えた。彼の盟友の西田幾多郎は「他即一」の「絶対矛盾的自己同一」と提唱した。いずれも人間というこの不可解な存在に対する取り繕いのない心の状態を言ったものである。

「処女が子供を生む」とか「父、子、聖霊のひとりの神」とか、聖書が提示する真理はまさに善悪の木の実を食べて異常に肥大化した人間の知性に対する挑戦でもある。私たちが取るべき態度は、自分の知性のフレームに矛盾なくはめ込むことではなく、その事実の前に服すること。服した者は安息を得る、安息した者は取り繕いの必要はない。

今のニッポン、そんなに急いでどこへ行く。結局、行き先を失った不透明な中で、目先の利益を追っかけた挙句の姿であるが、聖書は言っている、「得ようとすれば、失う」と。男子サッカーも得ようとして堅くなり、凡ミスで4点も失ったようであるが、ゲット・ゲット・ゲットの姿勢は必ず自分の身を滅ぼす。美空ひばりも唄っていたであろう:

 勝つと思うな、思えば、負けよ@柔

今のニッポンの世知辛さは、みんなが勝ち組に入りたがるため。この世はサドンデスの椅子取りゲーム。しかし神の国は失った者が得る。このゲームの中でニッポンは人としての当たり前を失った。モンゴルはどうか。Saltさんのモンゴル紀行が楽しみである。

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さて、Dr.ルークもそろそろトある所に姿を隠します。この日記も空白が多くなると思います。では、しばしのご無沙汰です。