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自由・平等・博愛のルーツ

ちょっと不思議な・・・。車の中で平井堅の歌「瞳を閉じて・・・それだけでい〜い〜」を聞いていて、「はて、瞳って、確か瞳孔のことだよな。瞳孔は自律神経支配だから、どうやって閉じるんだろ?」と、ふと考えてしまいました。「まぶたを閉じて・・・」ならば分かるんだが・・・?(ムードのないヤツと言われそう、汗)

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「自由・平等・博愛」―アメリカ独立宣言、フランス革命での権利の章典、そしてマッカーサーに押し付けられたニッポン国憲法の根底思想である。さて、この思想は何に由来するのだろうか?聖書?・・・答えはノーです。

聖書ではむしろ「召された状態のままでいなさい。奴隷は奴隷のまま。自由人は自由人のまま。奴隷は主人に対して主に仕えるように仕え、主人は奴隷に慈しみを施しなさい」とあるとおり、いわゆる奴隷解放宣言をしていない。

また「持っている者はますます豊かに、持っていない者は持っているものも取り上げられる」とあるとおり、ある意味で「籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」を説いている。

自由の意味が我々のイメージする次元と完全に異なる。聖書の説く自由は、自分を制限することのできる自由である。自由をあえて行使しない自由である。自分を低くすることの出来る自由であり、神の目にNon-VIPとなることのできる自由である。いわゆる「自由・平等・博愛」はフリーメーソンの思想―人間の魂由来の思想なのである!

そしてメーソンの拝する神は、受肉された神ではなく、理神論的神であり、人格化されない神である。「すべてイエスが肉体を取られたことを告白しない霊は偽りの霊である」とあるとおり、メーソンはこの世の神サタンを礼拝している。喩えて言えば、検事に化けた悪人が「自由・平等・博愛」のプラカードを持っているようなものである。

敵はきわめて狡猾に真理に挑戦している。しかもクリスチャンが自分の幸福を求めて盲目にされている結果、真理が挑戦されていること自体に気がついていない。サタンは光の天使に化けることができるのだ!

今後この種の人間の目にアピールするスローガンが流行ることであろう。そしてそれによって真理から落ちるクリスチャンや教会が増えることであろう。しかも自分が真理から逸脱していることに気がついておらず、むしろ真理に立つ者たちを狭量であるとか、反人権的であるとか、異端だ、カルトだとか告発することであろう。

あらゆる宗教を統一し、政治を統一し、キリスト抜きの「自由・平等・博愛」の追求こそ、終わりの時代の敵の策略である。目が見える者は幸いである。