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自然と生きる

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               霧ケ峰から望む八ヶ岳

私の知り合いに明石庄作という陶芸家がいる。最近どこかの保険会社のCMに出ていたので驚いた。前に彼から湯飲みをもらったことがあるが、もしかすると彼が無名時代のこの湯飲み、けっこうな値段がつくかも知れない(取らぬ狸の何とやら・・・)。

で、彼はひたすら土に塗れて、練っては壊し、壊しては練り、焼いては壊し、壊しては焼くの繰り返しの日々を送っている。私の義兄も土にまみれて野菜を作りつつ、野鳥観察と夜空の星の観測に夢中になっている。同時に体を鍛え、最近もボストンフルマラソンや、アイアンレース(3.8キロの水泳+180キロの自転車+フルマラソン)を完走している。

思い起せば子供時代、自然にまみれての夢中に生きた時代には何の悩みもなく、日々是好日であった。田舎に帰る度にその泥や藁の匂いがプーンと甦る。臭覚は大脳の古い部分(辺縁系)辺りに神経が入るため、匂いの思い出は視覚的な思い出よりもはるかに深い記憶をビビッドに想起させる。田舎の匂いは私を少年時代に戻してくれるのだ。

義兄も言っていたが、歳を取ると自然が恋しくなる。人間は大脳皮質を発達させて知性で生きているが、インターネットやゲームで象徴されるその生き方はきわめて表層的なもの。いのちを忘れた虚しい神学論争も同じ。決して満足はない。否、むしろ人を狂わせる。自然は多分生命の根幹をコントロールする辺縁系や脳幹部に訴える生き方を提示するのだろう。それはズッシリとした生きる実感と満足感を与える。

そう、人は元々土(アダマ)なのだから。