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お金のこと

聖書では「神とマモン(金)に兼ね仕えることはできない」とある。これでクリスチャンはお金に対してある種の病的な臆病さに陥る。「お金=悪」と思い込むわけ。ところが教会で牧師が「1/10献金しない者は神から盗んでいる!」と脅すものだから、「取られる」と感じている者は不平タラタラとなる。

私はこの種の人々は実に気の毒であると感じる。捧げることは、額の問題でもなく、義務でもない。<神との関係>の問題であって、捧げれば捧げるほど実に神は豊かに供給して下さる。

私もかつては経済的問題について恐れを持っていたのであるが、8年越しの裁判やリストラされる経験を通して、主の真実を経験してきた。確かに主は捧げた分の数倍を与えて下さる!

ベニーヒンの話しついでに言えば、自分の事業を大きくしたい人は、教界ではなく、この世でやればよろしい。リッチになりたい人もこの世から稼げばよい。献金のベンツに乗るなって。手段はいくらでもあるし、この世には金が余っている!出エジプトした民もエジプトから富を持ってきて、それで幕屋を建造した。その金の量は莫大なものである。

私も今、せっせとこの世の富を得ることに励んでいる。仕事も休みが取れないほどに与えられ、相場でも、今日もそこそこにゲインを得ている。聖書はこう言っている:

Tテモテ6:10−金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。

愛することは執着の問題。それは魂の粘着性。実は相場においては執着は致命傷。金に心を置くと直ちに失敗する。儲かっても儲からなくても淡々とした者が勝つ。金は人生の目的でもなく、精神安定剤でもない。それは手段であり、道具に過ぎない。道具の奴隷となることが問題なのである。

前に教界は「花見酒の経済」をやっているから、いずれ破綻すると書いたが、金の流れに対して広く開く必要がある。考えてみればよい、すべてのクリスチャンがいわゆる献身をして、みなが献金で食べる状況を。ああ、それは何と醜悪な光景だろうか。

かくして「清く・貧しく・美しく」メンタリティーから解かれる必要がある。それはもっともらしい仮面をつけた宗教に過ぎない。あなたの奥底の本心を、変な霊性をよそわずに直視してみれば良い。次の御言葉によって励まされるであろう:

・ヨハネ14:13−14
またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。

・Uコリント9:11
あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。

・エペソ3:20
どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に・・・

私たちが神を父として知れば知るほど、「何でも」求めることができるようになる。神は「あなたのために」それをかなえて下さる。やせ我慢をやめ、取り繕いをやめ、「何でもあなたのほしいものを求めなさい」という主の促しに大胆に応じればよいのだ。

神はすべてにあり余っている方。こぼれて来る方。ニッポンキリスト教の白粉は直ちに洗い流すべし。私たちはあらゆる点で豊かになる民である!