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女子高生殺人事件(続き)

『週刊文春』今週号によると、被害者は左頸部を切られ、頚動脈・静脈切断、これだけでも致命傷なのに、さらに気管までも切断されていたようだ。加害者は執拗に首と顔と頭部を狙っている。これは殺し方として尋常ではない。おそらくこの加害者は我を忘れるほどの狂気的怒りに駆り立てられてのことだろう。

多分精神鑑定をするだろうが、年齢から見て、サディズムを基調とした偏執性を伴った行為障害あたりと判断されるだろう。もう少し大人であれば、事の経緯や殺害法から見て、境界性人格障害と自己愛性障害、さらに偏執質(パラノイドor妄想性人格障害)あたりに該当しよう。もっと言えば、昨年の幼女殺人事件のようなサイコパス。

これらの人格障害は一般社会では10%程度見られる。つまりかなり多いのだ!病院の外来で20%、精神科外来では30-40%程度になる。で、私の印象では、キリスト教界でもおそらく30%程度見られると感じている。要するに一般社会よりはかなり高いのだ!教職者あたりはもっと・・・?

前にも書いたがこの手の人々が自らの内的葛藤を拡散して問題を起こすことはよくあるし、巻き込まれるとこちらも少なからず傷を受ける。牧師たちからもこの手の人たちが教会をかき回し、牧師自身も心身を壊して入院したがどうしたらよいのかと相談も受ける。まことにお気の毒と言うべきであるが、実はこの手の人格障害には治療法がないのだ。例のサカキバラ少年も5年以上に渡る医療少年院での「治療」を受けて、退院したが、果たして更生できているか否か、今後の監視が必要である。

はっきり言うと、牧師などがこれらの人格障害者に関わるべきではない。「彼らを受容して、愛してあげる」などは、それ自体がまったくの「妄想」であって、彼らはそれで変わることはない。なぜならそれが彼らの生き方そのものであり、アイデンティティだから。絡まれたらエライことになる。

精神疾患の症状には「自我親和性(症状を自分で楽しむ)」と「自我違和性(症状で苦しむ)」の二種があるが、人格障害者の場合は前者なのだ。彼らの特徴は「幼稚さ」。知性はそれなりに発達している自我が未成熟。そこで他者からのささいな態度や言葉によって容易に傷つくのだ。で、これが憎悪に変わる。

このような場合は理屈はほとんど通じないので、いわゆる常識的な話し合いはほとんど成立しない。妄想を持っていたりすると手の打ちようがなくなる。このような場合、繰り返すが、決してガチンコしてはならない。彼らは外見は立派なオトナであっても、内面は極めて幼稚。よって子供を扱うように接しないと、危険性が生じる。分かります?大人として接するから振り回されるわけ。

で、こちらの態度次第では、怒り狂っていたような状態がコロっと変わって、大人しくなる。この豹変振りは不思議なほど。ところが聖霊派あたりでは、何でも「悪霊じゃ〜」とやるからよけいにおかしくなるわけ。これらの人格障害者と接していると、彼らの世界と私たちの世界の相違が良く分かる。価値観や感受性が根底から違うわけ。要するに私たちの常識はまったく通じない世界に生きている!彼らの世界観は自己がその中心。すべては自己から始まって、自己に収斂する。

今後この手の人々が、教会にますます増えるだろう。今学校の先生たちが精神疾患で休職している率が相当程度あるらしいが、牧師たちもいずれ同じ運命を辿る。またキリスト教会の中でも(前に子供が殺された事件があったが)、この手の事件も起きてくるだろう。

繰り返すが、ニッポンキリスト教はアメリカ産の「預言者」(彼ら自体が妄想性・演技性人格障害に見えるが・・・)の吹く「リバイバル音頭」を踊らされている時ではなく、サバイバルの問題に直面していることをしっかり認識すべきなのだ。着々と足を地面につけて日々生きること、これができなくてなぜ神が私たちを用いることができるだろうか?

まことの霊性は生活に現れる。いのち(life)は日々の生き方(living)を、日々の生は人生(life)を創る。神学や聖書の知識はあったとしても、当たり前の生が送れない人はどこかおかしいのだ。私は百のもっともらしい理屈よりは、暮らしぶりの一片を見て人を判断すべきと、ニッポンキリスト教界と関わって、ますます感じるに至っている。

要するに、男はちゃんと仕事をし、女は家事と育児を果たすこと。当たり前を当たり前に・・・。これこそが主にあって、日々是好日。

注:人格障害や精神疾患を持つ人がみな犯罪を犯すと言っているのではありませんので、誤解なさらないように。

Commented by 外科医 2005年11月30日(水)16:38

>要するに、男はちゃんと仕事をし、
>女は家事と育児を果たすこと。
>当たり前を当たり前に・・・。
>これこそが主にあって、日々是好日。
はじめまして.ブログ楽しみに読ませていただいております.私も,クリスチャンに主が要求されている事は,まさしくこれだと思います.主が与えられた,日常の生活を主にあって忠実に行うことが一番大切なことだと思います.
「奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。」
 私は,職場で,誰かの部下であると同時に,誰かの上司でもあります.主に仕えるように上司に仕え,主が人をご覧になられたように,部下に対しての言動を内省したいと思いました.