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塀の中の懲りない面々

と言う懐かしい作品がありましたね。私的には、「キョウカイの中の懲りない面々」と言いたいかな?よくやってますよ、このニッポンキリスト教という閉塞したギョウカイで。「リバイバル」なる幻想を追い求めて。もうビョウキの人の相手も、立派なセンセイとの関わりもご遠慮したいところがホンネ。勝手にやって下さい、と。(ニッポンキリスト教からエクソダスしたい方には援助を惜しみませんが。)

BBSでタバコとアルコールの話が出てきましたが、よく電話をいただくのですね。くら〜い声で、「私、実は酒が止められなくて、教会に行くと責められるようで、苦しくて仕方ないんですが・・・」と。有名な教会の方々です。

まことにお気の毒ですが、アディクションは止めようとして、挫折して、自分を責めるほどに深くはまるもの。根底に満足がないのです。クリスチャンにとってタバコやアルコールがOKかNOかは本質ではありません。本質は渇くことのないキリストの水を飲むこと、満足すること、です。

 * * *

しかし、早いもの。あと1ヶ月で今年も終わり。そろそろ体も疲れが溜まってきて、温泉がチラチラとし出しました。そう、Dr.Lukeは温泉がないとやっていけません。おいおい、キリストで満たされたら、そんなもの不要になるんじゃないの?・・・こう思った方、ニッポンキリスト教にマインドコントロールされていますよ。それは宗教です。この肉体は旧創造のもの。適切なメンテが要るのです。

とにかく何を言われようとも、自分とキリストとの関係を維持しつつ、楽しく生きることですね。かくして迫害で殺されることも究極のエクスタシーなのでしょう。妄想を持っている人には殺されたくありませんが(笑)

Commented by はるえ 2005年11月25日(金)15:12

あースミマセン、また共感してしまいました(笑)
リバイバルのことも、お酒のことも、温泉のことも、全部に。

私たちにとって神の言葉である聖書が最も大切なのは言うまでもありませんが、もっとこう人間の理性や、世の中の常識に照らし合わせて、健全か不健全か、という見方をしていく必要もあると思います。それができなくなってしまっているニッポンキリスト教の方々がおかしいわけで・・・歪んでますよね、本当に。極端な言い方をすれば、ニッポンキリスト教なんてどーでもいい、と開き直って悩むことをやめたとき、本当に生きたイエス様と出会っていけると思います。無理して彼らと関わろうとするとき、こちらも負のエネルギーを背負い込んでしまうような、そんな体験を私自身もしたことがあります。でもそれは常識的に考えて、健全なことではない。だからやめました。ビョーキになって当たり前の世界に身を置きながら、大騒ぎして「癒し」のために祈ることも、やめた方がいいんでしょうねー。

お酒も温泉も大好きですが、イエス様が一番好きです。もうそれだけで十分。

Commented by Luke 2005年11月25日(金)16:41

そうですね、シンプルがイイ。

実はこの常識と律法の関係が、ディスペンセイションと再建主義の論争の本質なんですね。普通クリスチャンの私たちも、いわゆる常識とか当たり前の価値観を元に何気に生きているわけです。まあ、これを自然法と言うわけで、この最低限を明文化すると法律となるわけです。私たちもこの世の常識や法律を信頼しているわけです。

ところが再建主義者は人間は徹底的に堕落しているから、それらを信用することはできない、だから旧約の律法をそのまま司法律法(=普通の法律)として現代社会に対しても適用せよと言うわけです。人間に対する基本的信頼が欠如しています。彼らは逆に人間性に信頼することはヒューマニズムと言って批判するわけですね。ま、一言で言えば、人間性疎外です。

お分かりになります?別に再建主義ではなくても、こういった普通の常識や価値観を無視して、教会的な価値観で物事を判断する人たちがいるわけですね。医者も駄目、薬も駄目といった超霊的な人々が。しばしばそれが御言葉を超えた自分達の霊的価値観なわけです。

こうして人間として生まれつき持っている価値観を壊して、自分達の価値観を植え込んでいくわけです。これがカルトの出発点です。人間は元々神の形に作られた者。神的な価値観を持ち、自律して判断し、行動できる存在なわけです。こういった人間と神の関わりを一般恩恵と言うわけですが、ノンクリスチャンもそれに与ることができるわけです。だから社会が一応正常に機能するわけですね。対して特殊恩恵は信仰によるクリスチャンだけのものです(=永遠のいのちを得ること)。

かくして教界の諸問題は、先に繰り広げられたディスペンと再建主義の論争と本質的には同じわけです。で、そのような重苦しい雰囲気を人に媚びる笑いで打破しようとする先生たちもいるわけです。でもね、それは吉本に任せたほうが、と思うんですけど・・・^^。

私的には多かれ少なかれ、ニッポンキリスト教は閉じた特殊な世界であると判断しています。もっと言えば、とても健やかさとか健全さからは離れてしまっています。関わるとそのビョウキの影響を少なからず受けてしまいますね。

聖とは人になることです。当たり前を当たり前に、普通のおじさんとおばさんとして生きること。神は人になってくださったのですから。

Commented by はるえ 2005年11月25日(金)22:20

どうもありがとうございます。

おっしゃってること、よーく分かります。何もあえて付け加える必要もありません。分かりすぎるくらいに、分かります。

本来なら信仰を持つことによって、失われた自分を取り戻すことができるはず、というかそうでなけれなならない。なのに、現実はその逆で、より深いところに迷い込んでいく人が多い。本来ノンクリスチャンでも持っているような判断力さえ失ってしまう。そう、普通でなくなってしまうのですよね。

これ以上書くと切なくなってくるのでやめましょう。
でも非常に分かりやすいご説明を、どうもありがとうございました。感動しました!

Commented by ICHIRO 2005年11月26日(土)09:15

はつえさま、はじめまして。

>切なくなってくる

と伺って、ずいぶん大変なところを通られたのかな?と。
どうぞ、イエスにあって、休んでくださいね。

Commented by はるえ 2005年11月26日(土)09:31

ありがとうございます。
私は大丈夫ですよ。
ただ大丈夫ではない人が多くいる現状が切ないな、と感じるだけです。