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人間性のあり方

「ヒューマニズムについて」でも少し触れましたが、再建主義の人間性否定は予想以上のものがありますね。富井氏は、ヒューマニズム(=モーセ律法を適用しないこと)に犯されて再建主義に反対するクリスチャンは・・・悪魔の支配下にいる、と主張しています。

やれやれ、スゴイことです。まあ、この手の人に対してはあまりエネルギーを削がれたくはないのですが、論点としてはとても大切なのです。聖書は人間性についてどのように語り、主は私たちをどのように見て下さっているのでしょう:

(1)神は人になられた。イエスは人であるままで天に上られた。ステパノは人の子を見た。そしてそのままの姿で戻って来られる。つまりイエスはいぜんとして人である。

(2)イエスは人としてサタンに勝利し、世に勝利された。アダムが失った傷のない、純粋な人間性は、人の子イエスの死と復活にあって、回復され、さらに栄光化された。その人なるイエスの内に生きた御霊は、私たちの内にイエスを証し、復活のキリストのいのちを実体化される。

(3)古いアダムにある私は肉と共に終わった。霊が再生された私たちは、キリストが回復し栄光化して下さった人間性をも得ている。それはイエスの霊と魂の中で進展してたいのちの再現、あるいは追体験である。

(4)御霊によって私たちのうちにキリストの形が造られるとは、この御霊が届けてくださるイエスの人間性が私たちの霊から魂へと再現することである(メタモルフォーシス)。

(5)小羊はいずれ私たちを花嫁として迎える。それはイエスが分けて下さったいのちを共有する存在であり、新エルサレムでは、神と人が共に住まう。

(6)主は現在もまだ贖われていない私たちの体が弱いことを知っていてくださる。この弱い人間性をイエスは経験され、大祭司として私たちの弱さを思いやり、私たちがチリにすぎないことを心に留めてくださる。

(7)私たちの責任は、アダムにある私の有様を守ることではなく(これが「ありのまま」的ヒューマニズム)、死と復活を経て、キリストのいのちを内に生かすこと。

(8)かくして人間性は神にとってきわめて尊いものである。そもそも敬虔の奥義とは、神が肉において現れることであり、キリストはそれを100%成就された。私たちもその幾分かに与るものである。神は人の中に住まい、人を通して栄光化される方である。

(9)人間性は神にとってとても大切な要素であり、人間性を慈しんでくださる方である。ただし、十字架の適用が必要。なぜなら御霊は十字架によって働くから。それは私にとっては痛みを覚えることもあるが、しかしその時こそ神は甘い。その十字架を経るならば、古いものを脱ぎ捨て、栄光のイエスの人間性を味わうことができる。再度繰り返します:

 内なるキリスト−栄光の望み!