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「間」のリズム感

いわゆる笑いは「間」のリズム感から生まれる。人の精神はこの緊張と解放のリズムがないと病む。退屈しない話や映画はこの緊張感と解放感のリズムが絶妙なのだ(専門用語では「カセクシス」と「カタルシス」と呼ぶ)。能では「序・破・急」と言う。

そのリズムのスペクトルを見ると1/f型。これは自然界の快適な音、例えば小川のせせらぎや、そよぐ風などのパタン。あるいは快適なクラシックなどの音楽。これは前に述べたカオスとも関係する。

私の最近のここのカキコを心配気に読んでくださっている方々が多いようだが、実はこのリズムがかなり密になっているため。ハラハラ感はこの密度の高さから生まれる。私的には内側から沸いてくるものを忘れないように書き留めているわけ。

神との関係、つまり霊的領域においても同じようなリズム感がないと人は霊的に窒息する。ある本に霊はkinkすると言う表現があったが、まさにそのとおり。糸がもつれて玉ができるのだ。これがほぐれないといのちの流動性がなくなり、内的生活は新鮮さを失うし、時には圧迫を受けることになる。

神は私たちの人生において絶妙に「緊」と「放」を配剤して下さる。かくして人生は縞模様を生み出す。この配剤に信頼して委ね、いのちが流れている時、サラサラと生きることができる。多分私たちの健全な霊的歩みはカオスであり、スペクトルは1/f型であろうと夢想している。

Commented by salt 2005年12月09日(金)00:58

いつも楽しく拝見しています。再建主義との論争には大して興味はありませんが、ウインドウズの上位互換の話は、律法の役割を実にわかりやすく説明していると感じます。

今回の「間」のお話、共感できます。音楽でも音のない部分が、リズムを作っているわけです。リズムは不正確で音楽にならないのですが、規則正しいだけでは感情は揺れません。いわゆるノリやタメ、ツッコミといった絶妙な間が音楽を豊かにします。

再生と新生の話もおもしろいです。そういう「しきたり」がことば使いまで支配するところがあって、やくさ社会と一緒です。昔こういうことをネタに小説を書いたことがあります。日の丸町という町に松・竹・梅という三つの中学校があって、竹中学に通っていた主人公が、梅中学に転校してきたために、混乱する話です。くだらないローカルなルールを普遍の真理だと思い込むのは病的なことです。

山奥の渓流のようにサラサラ生きたいですね。紅葉でも浮かべながら、岩魚や虹鱒を泳がせてやりましょう。川には県境はありません。山から海へ流れるだけです。

Commented by Luke 2005年12月09日(金)08:18

サイトを開いて以来実にイロイロな人に出会いましたし、ニッポンキリスト教界を垣間見ることができたわけですが、このギョウカイをみていると一言、クリスチャンって何なの?と。1%なのは確かに理由があります。神が守っているのですね。再建主義との「対話」はまあひとつのエキササイズでした。

しかしこのギョウカイ、実にイロイロ。日本の村、例えば白川郷などは、それなりの調和があって、心が休まりますが、ニッポンキリスト教村には、遊園地の観覧車があったり、やたらド派手なビルがあったり、アメリカ式の家に、ロシア式の家があるみたいな、で、それぞれの家の前で派手な呼び込みが大声を上げていると。

家の中はというと、ホスト的に不自然な笑顔でベットリと迎えるセンセイと、そう、やくざ屋さんの家の調度品みたいなある種の違和感と緊張感を覚えさせますね。何ともバラバラ、まさに分裂病的。

そうですね、「川の流れのように〜♪」と生きたいですね。