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「生」の共有−鈴木大拙と西田幾多郎

彼らは生涯禅を通じての盟友であり続けた。鈴木禅学と西田哲学の創始者であることは言うまでもない。彼らの哲学は、一言で言えば(禅は「不立文字(ふりゅうもんじ)」であることを知りつつも)、「生きること」そのものを定式化したものであり、大拙は「即非の論理」(A∧¬A、つまりAがAでありかつAでない)、西田は「多即一の絶対矛盾的自己同一」と表現した。要するに私たちの限りあるオツムで静的にこねくり回すと矛盾に見えることが、動的に生きることにおいて、その生的実存において矛盾なく成立すると言うこと。

これは例えば、「神は父・子・聖霊の三位格をお持ちで、かつひとり」と言う、人間の知性には収まり切らない実存が、いのちなる神においては何らの矛盾もなく成立することと同じ。またイエスは神にして人であるわけだが、いのちなるイエスにあっては神性と人性の結合は矛盾なく成立している。もちろんイエスは自分の意志をお持ちであったが、彼の意志は常に父のそれと矛盾なく同時同在し得た。そのクライシスはゲッセマネで起きたが、なおその危機をイエスは十字架によって乗り越えた。

これらを神学では、私たちの知性に納まるように「神は3つのペルソナをお持ちでひとつのウシアを持たれる」とか、「神と人のヒュポスタティク・ユニオン」とか表現するわけだが、これですでにいのちから離れている。神は定式化される方ではなく、いのちそのもの。いのちにあっては、もっと言えば、実存的生そのものにあっては、三が一であって、何ら矛盾はないのだ。

大拙と西田はダイナミックな「生」、「生きること」そのものを共有したが(もちろんアダムにあるいのちではあるが)、果たして今のニッポンキリスト教のクリスチャンたちは、そのようないのちの共有を経験的に了知し得ているであろうか。それとも立体的で動的ないのちの次元から落ちて、いのちを喪失した平板な静的な議論によって、無残な荒れ果てた状況が展開しているであろうか。