提言

エクレシアと各キリスト教

アップロードファイル 54KBキリストの体であるエクレシアの実質といわゆる○○・キリスト教界の関係と変遷についてシェマティクにまとめました。

二分化社会の病理

実を申しますと、私自身は、自分の身の預け処を藩から会社に変えただけの、明治維新以降の「一生面倒を見てもらう代わりに滅私奉公する」式の日本のあり方はあまり好きではないのです。勝ち組と負け組みが明確に分けられ、努力した者には十分な報酬と地位を与え、格差を設けるべきと思っているのですね。

今の小学校では走ってもお手てつないでゴールだそうです。一言、あほくさ。できるヤツを潰すのが公教育の現状。私は潰されてたまるかと、そこから抜け出るために努力したわけです。ただし、機会は平等。どんなに貧しくとも、「むしろバカとブスこそは東大へ行け!」の桜木の台詞に燃える方なのです。

おいおい、何だか富井氏的ノリになってきましたが、事実彼の主張にはかなり共感しているのです。今のニッポンキリスト教は負け犬であることが当たり前みたいな感じ。病者のためにキリストは来られた、病者であることこそ幸いであり、教会は病者を受け入れ、大切に省み、保護するべきだ。で、疲れ果てる先生たちが多いこと。あのですね、病者はキチンと医師にかかるべきなのです。

要するに言いたいことは、前から言っているとおり、現在の教会は倒錯しているのです。かくして富井氏は再建主義こそ教会再生のための唯一の真理であるとなったわけです。そしてエリート意識を秘めた人にフィットしますね。私にもフィットしますから^^

以前にも述べたことがありますが、これからの日本のあり方を予想するに、社会は多分リバータリアニズム的に進むでしょう。要するに適者生存で、勝ち負けが明確化する。で、教界にはそこから落ちた人々が難民となって流れ込むでしょう。しかし養うことができない。ヒューマニズムの砂糖まぶしで、教界はフラストレーションのはけ口と化して混乱するでしょう。

さらにもっと深刻な問題は、勝ち負けの判定をされることを避けて、すでに400万のフリーター、80万のニートと言う層があることです。彼らを教育するために国が数百億を使って、彼らに学んでいただき、働いていただくようにする。ここにも倒錯現象が起きています。

しかしサイエンティストとしての私から冷徹な法則を申し上げるならば、会社において真に仕事をするのは全体の20%の人。彼らが80%の大事な仕事をこなしている事実。日本の個人資産が1300兆あると言っても、その80%を20%が占める。(実はその60%を富裕な老人層が占めている。)この「8:2」の統計法則をパレートの法則と言う。これも前に言いましたね。

で、問題は昭和までの日本であれば、あまり役に立たない80%の人を食べさせる緩衝領域があったのですが、これからはこういった無駄な領域はカットされていく。分かります?再建主義に中間領域がないのと同じです。しかし組織論の専門家に言わせると、実は何も役に立っていない空気のような80%の人がいないと組織が機能しないことも法則。彼らの存在が20%を生かすのです。要するに組織あるいは国家にはアソビがないと機能しないのです。

これから日本はある種の実験社会へと突入することでしょう。景気も回復。株価も絶好調。見かけは繁栄が戻るでしょう。現に金は余って行き所を探している。しかし精神的・霊的には真空が残ったまま。オウム事件の時、Time誌が、日本の霊的真空に吸い寄せられたと論評していたが、多分、緩衝領域から追い出された人々は宗教や占いやオカルトや秋葉系などのオタクなどの妄想系世界へと逃げるでしょう。科学万能主義とそれにはまりたくない諸々の主義に二分化するのではないでしょうか。ここにもストイケイアが働いているわけですが。

山谷氏がアメリカにはメガチャーチがあるから身の置き所を確保できるが、日本にはそれがないと指摘されていますが、最後の身の預け所として天皇制です。二分化社会で両者とも疲れ果てて、やはり天皇の臣民として生きることが実は日本人にとってもっとも安楽であるとの共同社会幻想が復活する可能性が大きいですね。この時期に男系女系の論争が急がれているのも意味があるかもしれません。天皇こそもっとも大いなる緩衝領域となり得るのかもしれません。

二分化社会の到来の可能性

以前から私も予測していた、二分化社会の到来の可能性について、山谷氏が米国のメガチャーチのトレンドから分析しています。実に面白い。私もこのような社会システムに日本人は耐えることができるだろうかと前に問題提起しているが、こんなところにも聖書と言う真理の書を読み違えたやや狂気の入った再建主義が関わっていたとは!?一読をお薦めします。

見分けの鍵

どうもインフルエンザのようですが、胃に来ており、しかも味が分からなくなっています。この数日間、ウイダーゼリーとヴィタミン剤と牛乳でしのいでおります。お陰様でダイエット効果てきめん^^ただ、みなさんにうつしてはまずいので、明日のセレブは私はお休みです(集会はあります。主とみなさんにお任せ)。
 
 * * *

いろいろな「風」を見分ける鍵は何かとご質問をいただきました。そうですね、メディアが好んで取り上げるものはたいていよろしくない。なぜ、金が絡むから。そして最も本質は、

・世の霊:自己増長・拡大・主張・ニーズ・評価を受けることや煌びやかを好む
・主の霊:自己が小さくされる・低くされる・軽視される・争わず人々からの拒否無視を喜ぶ

ある方の教会でも「パーパス・ドリヴン」に副牧師主導でどっぷりだそうですが、その方自身は「この2年間ビッシリ学ばせていただいたら、十字架の死と復活がないものに目ざとくなったようです」と証しされています。でも、大変ですね。周りが踊っているのに、自分は踊らないのも・・・。

教えの風のルーツ

ニッポンキリスト教ががんじがらめのクルシチャンを大量生産することは明らかのようですが、その教えはどこから来るのでしょう?また「パーパス・ドリヴン」などの流行の風はどこから吹いてくるのでしょう。

パウロは言っています:

キリストの充満の〔持つ〕規模に到達し、もはや未成年者ではなく、人間たちのサイコロ遊びまがいの、人を欺き惑わすだけの奸計じみた教えの〔送り出す〕どのような風にも〔挑発されて〕荒波立てたり振り回されたりすることなく、愛にあって真理を語り・・・(岩波訳エペソ4:13,14)

この風のルーツは、エペソ2:2では「アイオーン」と訳され(岩波訳)、人格化された時代の霊であり、天空という権勢領域の支配者に従って、不従順の子らの内に働いている霊(アイオーン)」とあります。ガラテヤ4:3;4:9;コロサイ2:8;2:20では、「世を支配する諸霊(新共同訳;原語ストイケイア)」と訳されています。

つまりこの空中には何か霊的存在があり、彼らが人間にある種の考えのヒントを吹き込むのです。あるいは絶対主権者の神は、温度が原子運動によるにも関わらず、絶対零度でも原子運動を許していますから(論理的には矛盾。不確定性原理により観測の限界)、大脳の不確定性要因によって、何かのアイデアが閃くのかも知れません。前に述べた「間」の病理によって相互作用しているかも知れません。(私たち医学者からすると分裂病者や欝病者の幻覚や妄想が聖霊派のようにすべて悪霊由来とは思いません。大脳生理的要因があります。)

いずれにしろ、私たちの内に生まれたその種は、ここが大切な点ですが、私たちの肉を刺激するのです!十字架と御言葉を経ていない肉にとって気持ちがいいのです(肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢;これが私の言うヒューマニズムです)。この意味で私は「人間的教え」と言っています(新改訳では上の聖句も「この世の幼稚な教え」と訳しています)。つまり人間の責任を無視し得ないのです。かくして肉はふくらみ、論理的肉付けをなし、さらには御言葉の「裏づけ」まで取り付けて、ひとつの確固とした思想体系が構築されます。これが肉の要塞のひとつです(2コリント10:4)。これが風となって時代を動かします。ニッポンキリスト教などはまさに赤子のように吹き回されているでしょう?

では、この空中の権を持つ者たちはどこから生じたのでしょう。これは実は私のカレッジの「スピリチュアル・バイブル・リーディング」と「真理の探究」で詳細に述べていますが、創世記1章を開いて下さい。創造が6日でなされたことが書いてありますが、よ〜く、読んで下さい。第2日目に大空を分けました。他の日ではすべて言われている「神は見て、良しとされた」の句がこの日だけないでしょう?何故でしょう?ここでウォッチマン・ニーと言うよりは、そのルーツのG.H.Pemberは、このときに空中の存在者も解き放たれたのだ、と言います。ではそれまで彼らはどこにいたのでしょう?はい、これから先はカレッジをどうぞ(と宣伝してしまった^^)。

かくしてこれからキリストに充満されていないニッポンキリスト教は、ますますアメリカ産の油注ぎの器や、先生たちの流行の風に吹き回されることでしょう。加えてメディアがヨイショ記事で煽ります。株と同じで、メディアが煽ったらオシマイ。御言葉で啓示されている主の御心は、黙示録3章のフィラデルフィアの教会にあります。ご自分でぜひ声を出してお読み下さい。

見よ、私はお前の前に扉を開いたままにしておいた。それは誰にも閉めることができない。なぜなら、お前は小さな力しかないのに、私の言葉を守り、私の名前を否認しなかったからである(岩波訳)

扉は人がムーヴメントで開くものでもなく、力のあるメガチャーチを打ち立てることでもない。「小さな力」を主は尊んでくださるのです!欺かれてはなりません。

なお、リンクで紹介したMax&Sheilaは何と"Lerning to Spirit-led, Not Purpose Driven"をロゴマークにしてしまいました^^彼らも言っています:福音とは普通の人が偉大な救い主を知ることであり、私たちが偉大になることではないのです!

主の御心とは?

せっかくヒゲをはやしたものの、何とマスクをする際、ムズムズとして耐え切れなくなって、ついに剃ってしまいました(笑)。これは主がヒゲを伸ばすのをお許しにならなかったためで、そのために風邪も主によって許されたのです・・・と、言った「証し」が聖霊派あたりではよくなされるようであるが、私にとってはこれが主の御旨なのか単なる生理現象なのか、判断できない。

このような「証し」が嵩じると「御心を行なえ」→「聴き従え」となって、深刻な事態が生じる。「御心」って何?「聴き従え」って、誰に?かくして「御心」から落ちることや、不従順の裁きを恐れて戦々恐々として、とてもクオリアどころではなくなるわけ。こうして牧師センセイ様が教会のトップにお座りになられる次第。この根底にはパラノイドの病理がある。主から見捨てられる、裁かれるという恐れと不安。

主の御心は何でしょうか?主の御心はただひとつです。「主ご自身を知ること」。私たちの失敗において、主の憐れみを知る。私たちの不従順において、主の愛を知る。生きるにせよ、死ぬにせよ、あらゆることで主を知ること。主のクオリアに触れること。これが御心です。このことだけを動機のすべてにしているとき、万事はOK!

安心して罪を犯してください、とは言いませんよ、パウロも言っていますが。しかし罪の満ち溢れたところには恵みもさらに満ちるのです。不従順のある心には主の愛によるメルティング(溶解)があるのです。あなたは自我を砕かれたいですか。ニッポンキリスト教の「自我を砕き〜」から解かれて下さい。主よ、私の頑なさをあなたの愛のクオリアで融かしてください、と祈りましょう、ね♪

カオスとは(再)-決定論と偶然論-

人生はカオスであると書きましたら、「カオスは混乱と言う意味ではないか」とお尋ねをいただきました。あの〜ですね、私たちが使うカオスの定義をまずはご理解いただきたい。

下(12月6日参照)に書いたとおり、「決定論から生じる系列と、さいころを振ってできる系列が区別ができない」と言うことが私たちの言うカオスです。このカオスにはイロイロと面白い性質があるのですが、私たちクリスチャンの人生はまったくカオスなんですね。

ちなみに物質ですら、量子力学によれば、粒子なのか、波動なのか、区別ができないのです。私たちの知性の中に実存のモデルを構築する場合の制限であり、ヨブに対して「お前に創造の神秘が理解できるか」と問いかけた神の人間知性に対する訴えなのです。

例えば、私たちの選び。エペソ書によれば、「天地の基が置かれる前から私たちは選ばれていた」とあります。で、カルバン主義では、運命論的に選ばれてない人は救われないとなり、修正アルミニアン主義では、選ばれていても自由意志で拒否できるとなるわけです。「カルバンvsアルミニウス」―勝敗はどっち?

われわれからしますと、「分からない」のです。つまり私たちの人生の時系列は決定論によるのか、偶然性によるのか、カオスの理論によれば区別できないのです!私たちの自由意志は神の選びを無効にできるか、できないか。あるいは私たちの救いは神の選びによる(決定論)のか、私の自由意志によるの(偶然論)か。「区別できない」とするのが私たちサイエンティストの立場です。

聖書に書いてあるとおり、「神はすべての人が救われることを願われる」とあり、また「私たちはすでに選ばれていた」とあるとおり、そのままに「アーメン」と神に栄光を帰するのみです。「選ばれていない人はどうなるの?」と言う質問自体がすでに"ill-posed"(不適切な問題設定)なのです。このふたつの命題をどう矛盾なく神学の体系に組み込むのか、私たちからすると元々無意味な作業であると思うわけ。

私たちの自由意志が神の定めを無効にできるのか(=偶然論:これは神の全能性に反する)、できないのか(=決定論:これでは人の自由意志の働く余地はない)、判断できないのです!

そもそも私たちは物理的な時空連続体に閉じ込められていますが、神はそれを超えた存在です。ですから神にとって私たちの人生の系列はすでに全工程が見えているのです!で、聖書はあなたがたは聖とされ、完成されたと告げています。

私たちはその地点から現在を逆算するだけなのです。行き着くところはすでに決定している。その間を埋めるのが私たちの自由意志です。別に再建主義に反対しようが、その神の決定を覆すことはできません。私たちの罪や失敗も神の決定を覆すことはできません。神はすでに私たちを完成された者として見ておられるのです。

その視点に立てば、私たちの人生は運命論的に決定しているからとして自由意志を放棄するものでもなく、何でも自由に振舞うべきものでもないと分かります。神の定めと私たちの自由意志とが綾なされて私たちの地上の行程は刻まれます。そこを目指して歩めばよいのです。

神の予定と人間の自由意志について

それは生きることはキリスト。キリストは道。人生の成功とか、失敗とかで振り回されるのではなく、キリスト御自身が目標。キリストから外れないことを自由意志で選ぶのです。またキリストを獲得することが私たちの動機なのです。大切なのは、決定論か偶然かと考えて立ち止まることなく、どこにおいても、どんな状況でも、神と共に歩くこと。これで十分ではないですか?神はインマヌエルなのです!

 <決定論(テーゼ)vs偶然論(アンチテーゼ)>を止揚して、<キリスト(ジンテーゼ)>

これって「霊的弁証法」と言えるのだろうか?

人間が関わる領域

山谷氏のBBSで刑法を論じるには人間理解が不可欠とのべておられます。これはとても大切なポイントです。現代科学では、霊の次元はまったく考慮されていません。つまり魂(=精神)と体の関わりまでです(精神身体医学)。

ですから今のサイエンスは霊的要素については形而上学の問題となり、その研究対象としません。ただし97年にWHOが「霊的健康」と言う概念を提示しましたから、今後は分かりません。霊まで考慮した医学が、私の提唱する「霊精神身体医学」です。

クリスチャンは霊的領域と接触を始めた存在ですから、世のサイエンティストの語る形而上学は、形而上学ではなく、十分に実体験できる領域なのです。

そして大切なのは、神は物理の次元でも法則によって、魂の次元でも法則によって(ノンクリスチャンはここまで)、そして霊の次元でも法則によって人と関わりを持たれ、人を治めます。クリスチャンにとってはこれがいのちの御霊の法則であり、モーセ律法にはなかったものです。だからモーセ律法は欠けがあり(ヘブル書)、新たにメルキゼデク系律法−いのちの御霊の法則−が導入される必要があったのです。これは十字架によります。

つまり旧約と新約では致命的な霊的相転移が起きているのです。今私たちクリスチャンを支配するのは、モーセ律法ではなく、いのちの御霊の法則であり、それは自由の律法、いのちを与えて生かす法則、キリストを私たちの内に実体化する法則なのです。あなたはどのような法則に委ねて生きていますか?

御霊に従うならばあなた方は律法の下にはいない。

福音は誰に

委ねられているのでしょうか?メンツとプライドで凝り固まった野心家のボクシでも、一見知性的であるが実は知性と情緒が乖離した病的なシンガクシャでもありません。

普通の感性を大事に、普通の生活を淡々と生きている普通のオジサン・オバサンに委ねられているのです。福音とは生きることを共有すること、泣く者と共に泣き、笑う者と共に笑うことから始まります。聖とは人になること。最も人であった方はイエス。

それはいのちの種である御言葉を、時期が良くても悪くても、倦むことなく、淡々とまき続けること。それを発芽させるのはいのちのパワー、それを育てるのは神ご自身。単純に信じましょう。

ただし、ボクシの眼鏡にかなった従順なニッポンキリスト教徒を作るのではありません。ややこしい狂気の入った神学を刷り込むのでもありません。それはビョウキを生むだけ。健やかさにあってイエスに従う者を生み出すのです。サタンはそのような健やかさとイエスに従う者を嫉妬する。

まず私たち自身が原点に戻るのです。主と出会った日の解放感と甘い愛で涙した時に・・・。その感動が人の心を動かします。原点とは、x軸とy軸の交点、つまり十字架です。

まあ、ガチンコするつもりはありませんが

ちょっといくつかのトピックについて問題提起しましたが、あまりニッポンキリスト教の神学者や牧師たちに回答を期待しているわけではありません。というか、ほとんどしていませんね。おそらく時間の無駄になるだけですから。ただ心ある皆さんにはちょっと考えてみていただければと思ってはいます・・・。

最も大切なもの

今回の議論に巻き込まれて一度確認しておきたいことが明らかになった。

神学の論争のルーツはどこにあるのか。

これは人間のレベルで生じる現象であり、一方で神が何を最も大切にされるか。その対比が明らかにされたと思う。ディスペンセイション主義は再建主義を受け入れることができず、逆もまたしかり。で、それぞれは自分が聖書に堅く立っていると「信じている」。だから一歩も譲れない。(まあ、私も今回の件で再建主義の創始者ラッシュドゥーニの文章などを読み、本質的な問題があると分かった、というより再建主義の究極には論理必然的に狂気的要素があるようだ。)

果たしてこのような状況を神はどのようにご覧になるのだろうか。古の昔から神学上の対立(つまりどちらが真理かと言う争い)でクリスチャン同士が殺戮を繰り返してきたことは歴史上の事実。が、ここで確認しておきたいが、真理は第一義的にキリスト御自身である。「わたしは真理である。」そしてキリストは神学のドグマのセットではなく、いのちである。「わたしはいのちである。」

しかし何とも虚しいことに言葉尻の取り合い、否、それ以前に互いの言葉の定義を確認する間もなく自分の教義の押し付けに堕している。こういったことはわれわれサイエンティストは議論以前のマナーの問題なのだ。相手の言葉の定義を理解してから議論は成立するのだから。例えば「ヒューマニズム」の意味がまったく異なっている!(11月30日参照)

聖書はその方(パースン)を紹介する書であり、履歴書である。エマオの途上で青年二人にイエスは聖書がご自分について証ししていることを説かれた。しかし彼らは目が開かれるまでイエスご自身に気がつかなかった。文字を理解しても、本人を理解し得なかった。これと同じことが神学の論争では起きるのだ。真理なる本人を離れて、文字面の対立。それはまさに自己(Self)の表現。自己だから一歩も譲ることができない。それはきわめて強烈な魂のパワーによる。

一方で聖書はもちろん神の息吹きであり、神の霊が塗りこまれている。それは何のためか。いのちのためである。内に誕生したキリストのいのちの養育のためである。再建主義者富井氏との対話は、彼が「モーセ律法=いのちの御霊の法則」と宣言された時点で、すべてが見えてしまい、後は無意味と分かった。

再建主義にはいのちの次元が完全に欠如している。神の国は第一義的にいのちの領域。そのいのちに応じた統治がある。彼らはこの統治をいのちを抜きにモーセ律法の適用のみで成就しようとする。つまり絵に書いた餅。いかにキレイに、実物にソックリ欠かれていても、それは所詮絵である。まことのいのちを忘れ去った神学はかくも虚しい。

いのちの次元に戻ること。その時いのちに応じた統治が実現する。これが神のご計画のすべてであるが、これが欠如しているのが現在の教界。神学の議論の森の中に迷い込むと一本一本の木は見えても、森全体の位置は見えなくなる。それと同じような迷子状態にある。再建主義に対してはある種の期待もあったのだが、残念ながら最も本質的な部分がすっぽりと抜け落ちていたことが分かった。

一方でヒューマニズムに落ちた人気取りの「働き」が見かけ上栄え、一方でいのちの欠如したやや狂気の入った神学が孤立化し、ますます今後のニッポンキリスト教は混迷を深めるであろう。その混迷の中で内なるキリストを知り、いのちに与ることを経験した人は幸いである。(こういった表現は再建主義者からも普通の先生たちからもほとんど聞かれないのが不思議なのだ・・・)

前に書いたことがさらに重要になるようだ。

もっとも本質的なこと

Spywareにご注意!

NHK「クローズアップ現代」でSpywareの実態をレポートしていた。私も一応気をつけており、そのスキャン・ソフトで確認はしていたのだが、今日別のソフトでスキャンすると、何と5つものSpywareが侵入していました。あわてて銀行の残高と証券会社、およびクレジットカードを調べたところです。

同番組によると3台に1台は侵入されているとか。ホームページやSpamメールを開いただけで感染するものもあるらしい。皆さんも確認された方がいいです。ウイルスのワクチンソフトだけでは危ないですね。ファイアウォールと、ワクチンと、Spyware検知ソフトは必需品ですね。しかし何とも気味が悪いこと。

自然人と律法

生まれながらの人、あるいは律法を持たない異邦人については、次のロマ書にある御言葉を見れば明らかですね:

2:14 律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。
2:15 彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。

これが私の言う「生まれつきの価値観」です。霊の残りが人にはあるわけですね。しかしパウロが言うとおり、善(神の基準)を行なう意志はあっても力がない。この力はいのちにより、いのちはいのちの御霊の法則に従って働き、この時、私たちの内に立法の要求が満たされるのです。これが神学の理論ではなく、御言葉そのものの啓示です。

御言葉で語り合うこと

不思議ですね、キリスト教徒って。一般にユダヤ教は「旧約聖書+タルムード」、イスラム教は「旧約聖書+コーラン」、で、キリスト教は「旧約聖書+新約聖書」かと思っていたら、そうではないらしい。時に「+α」があるようだ。そのαがカルバンだったり、アルミニウスだったり、ヘンリー・シーセンだったり、チルトンだったり、ゲイリー・ノースだったり、もっと程度が落ちるとベニー・ヒンだったりするわけ。このαが曲者でして、互いに異端のラベル貼りをする根拠になってしまうわけ。

私的にはなぜ御言葉だけで話し合いができないのか、本当に不思議なんですが。この点、カルバリー・チャペル(日本の「大和」とは関係ないですよ)のチャック・スミスは一番自然と受け入れることができるのですね。彼は御言葉を語るだけですから。何でも彼もウォッチマン・ニーで霊的覚醒をしたらしく、教会運営のあり方もニー的なんですね。テイストが似ているのです。御言葉という共通語に戻って欲しいのです。

ちなみに神学を見ていると、どうも方法論もモラルも相当に程度が低い。帰納法を使っているのか、演繹法なのか、それすらもサッパリ分からない、その個人の妄想なのか、価値観なのか、「学」としても根本的な欠陥を抱えているようです。だから論争のあり方も幼稚で不毛。自らを省みることができないヒトはとにかくコワイ。と思いません、皆さん?