| ■癒しについて |
・主はあなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病を癒し・・・(詩編103:3)
・まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった・・・彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された(イザヤ53:4−5)(注)。
・信じる人々には次のようなしるしがともないます・・・病人に手を置けば病人は癒されます(マルコ福音書16:18)。
(注)マタイ福音書ではこれを引用し、イエスによってこの言葉が成就されたと言っております。
これらの御言葉では「罪は赦され」、「病は癒され」と明確に語っております。「病は罪を象徴する」という見解はあくまでも一つの「解釈」に過ぎません。イザヤ書にあるとおり、イエスは十字架上で「私たちの罪を負いAND病をになった」のです!これが生の聖書の言葉です。そして「信仰は神の言葉を聞くことから来る。聞くことはキリストの言葉による」とある通り、その生の神の言葉にどのように応答するか、その私たちの側の応答こそが信仰に他なりません。
私たちの側の「解釈」というフィルターを通す必要はありません。神から言われたとおりに聞き、受け入れ、信じること、これが私たちの側の責任です。英語で「責任」は"responsibility",すなわち「応答性」なのです。そして現在でもそのような柔軟な態度が私たちにあり、神の言葉に信仰によって答えるとき、確かに奇跡的な癒しも起きるのです!そのような証しは世界中で枚挙にいとまありません。ただ不思議なことにこれらの証しがあっても、信じたくない人々は自分の「解釈」を優先して、決して信じないのです。
癒しに限らず神と私たちの関係は、すべて私たちの側の神の言葉に対する容量"capacity"によります。イエスが地上にいたときも、律法学者は彼の言葉に対して「ひどい言葉だ。誰がこんな言葉を聞くに耐えよう」と言って、その言葉を拒否しました。しかしその「ひどい言葉」を信仰によって受け入れて、その幸いに与かった人々も多いのです。当時の律法学者にとってはイエスが病を癒すことより、罪を赦すことのほうが受け入れ難かったのです。現代文明に犯されている私たちはその反対です。赦しの福音は容易に信じることができても、癒しの福音を信じることは困難です。
ただしここで注意すべきことは、しばしば私たちはイエス御自身から切り離して、奇跡や癒しだけを求めてしまう危険があることです。聖書では「福音・真理の伝えられるところ」において奇跡や癒しが伴うとあります。奇跡や癒しはあくまでも福音・真理に付随するのです。真理とはイエス御自身であるからです(→「真理について」参照)。そして神は造り主であり、救い主であり、与え主であり、そして癒し主であるからです。神を知ること無しに決して信仰を持つことはできません。私たちが神たるお方を知っている範囲と深さにおいて、その御言葉をそのままに受け入れ、信じることができるからです。この点神から離れて「自分は癒しを信じる、信じる、信じる」と強く念じてみても決して癒しは起きないで、むしろ失望するだけでしょう。神を知ることと信じることは互いに相補的であり、ある面で同じことであるからです。
また究極的な体の贖いはイエスの再臨の時に完成されますから、奇跡的な癒しがあっても死は必ず訪れます。さらにドクターにかかったり、薬物を飲むのは不信仰であるとか、「信じたら」患者を無理やり退院させてしまうとか、そのような考え方は大変危険です。現代においては医学の進歩によって人間に委ねられ、人間がコントロールできる領域も広くなっていますから、神は適切なドクターへと導いて、彼を用いて癒してくださることもあるからです。信仰と医学は決して対立しません(→「科学と信仰」参照)。