■律法とクリスチャンについて

      クリスチャンが律法を守るべきか否か、神学者の間ではケンケンガクガクの議論が交わされていますが、自然科学者の私から見ると少々見当ハズレの感が否めません。クリスチャンは律法とどのような関係にあるのでしょう。実はこれは神学の問題というよりは(霊的)自然科学の問題なのです。まず論点をまとめておきましょう。

        1.律法は聖であり、良いものであり、正しいものである(ローマ7:12)
        2.イエスは律法を破棄するためでなく、成就するために来られた(マタイ5:17)
        3.パウロは律法を守ろうとするとかえって悪を行なって束縛された(ローマ7章)
        4.律法により罪は力を得て、肉の無力が証明され、パウロは死んだ(ローマ7:8,9,13;8:2;1コリント15:56)
        5.律法によりパウロは罪の存在を知った(ローマ7:7)
        6.律法によっては義とされず、かえって罪の意識が生じる(ローマ3:20)
        7.律法の欠点は、それを守ることのできるいのちを与えることがない(ガラテヤ3:21)


      整理しましょう:神は人に律法を守ることを願われますが、生まれつきのいのち(=アダムにあるいのち)の性能ではそれが無理であることを知っておられます。しかし人はそれを知りません。そこで神はあえて人を律法の元に閉じ込め(ガラテヤ3:23,24)、罪の存在を暴き、肉の無力を知らしめたのです。これは律法の消極面と言えます。律法を行なうことによっては義とされることはなく、罪の自覚を生じるだけです(ローマ3:20)。これはちょうど500ccのエンジンの車で急坂を登るようなものです。それは性能が伴いませんので、元々無理なのです!まずこの無理であることを車が知るために、あえて過酷な要求を神は与えたのです(ガラテヤ3:19)。

      では無力を知った後、どうすればよいのでしょう。律法は依然として存在しています。第一に、律法をまっとうし得ない性能のいのちは終わらす必要があります。律法を全うし得ない以上それは罪ですから、死の代価を要求されます(ローマ6:23)。実はキリストが十字架で死なれた時、私たちも共に死んだのです(ローマ6:2,3;ガラテヤ2:19)。キリストの死は私たちの罪を負って身代わりになられたのみでなく、私たちもそこに含まれていたのです。この「身代わり(substitute)」の面と、「一体化(結合・包括:identification)」の面の二面性を見る必要があります。かくして私たちは古いいのちにあって死ぬことにより、律法を消極的に全うしたのです!

      第二に、イエスが復活された時、私たちも共に復活したのです(ローマ6:5,8)。キリストは肉体を持って復活すると同時に、物理的に制限されないいのちを与える霊となり(1コリント15:45)、信じる者のうちに聖霊によって生きてくださる方となりました。このキリストのいのちは律法をまっとうし得るいのちです。つまり性能の悪い古いエンジン(=アダムにあるいのち)は死に、性能の良い新しいスーパー・エンジン(=キリストのいのち)が私たちの内に置き換えられたのです!エンジンが古いままで聖化される努力や難行苦行をしても無意味です。エンジンを変えればよいのです。神の方法は実に単純です。今やキリストと共に復活した私たちのうちにはこの新しいスーパー・エンジンがありますから、このエンジンによって生きればよいのです。このエンジンとは御霊によって実体化されるうちにいますキリスト、栄光の望みです(ガラテヤ2:20、コロサイ1:27)。

      この新しいいのちがあるにもかかわらず、多くのクリスチャンがこれを見出し得ず、肉(=古いいのちの生き方)で生きようとして葛藤しています。私たちは肉に頼るか、御霊に頼るか選択の自由があります(ローマ8:4,5;ガラテヤ5:16)。御霊に頼ることは内にあるキリストのいのちによって生きることです。そのとき私たちは罪と死の法則から新しいいのちの御霊の法則によって解放されるのです(ローマ8:2)。この新しいいのちの御霊の法則によって機能する新しいいのちが生きる時、律法は自然とまっとうされます。新しいいのちに信頼すること、これが信仰であり、よって私たちは信仰によって律法を積極的に全うするのです(ローマ3:22)。

      喩えますと、私たちが二足歩行をする時、きわめて複雑な物理の微分方程式を解かなくてはなりません。皆さんはその数式を知的に解けるでしょうか?大抵の人は無理でしょう。でもみなさんは歩いています。どうしてでしょうか?人間のいのちがそれを自動的に満たしているからです。いのちは知的に理解できなくとも、自然と物理の方程式を解き、二足歩行の法則を満たすのです。だから歩けるのです。ポイントがつかめましたか?

      鍵は律法を自然と満足し得る性能を持った新しいいのちにあります。これがクリスチャンのうちにはすでに備えられているのです。このいのちは育てる必要があります。最初は肉の影響が強いですから、そのいのちの力を見出せないでしょう。しかし自転車の乗り始めの頃のように、何度も倒れては起きて下さい。そのうちに自然と走れるようになります。法則をつかみ、それに対する信仰(信頼)が養われたからです。意識するまでもなく 二足歩行できまた自転車に乗れるように、新しいキリストのいのちも自然と自分では意識することもなく 律法を満足するのです(ローマ8:4)。これはいのちの御霊の法則への信仰(信頼)によります。よって私たちは信仰によって律法を全うするのです(ローマ3:31)。

      お分かりでしょうか。その時律法に従っていますが、縛られている感覚はありません。むしろ律法は自由を与えます(ヤコブ1:25、新共同訳)。なぜならクリスチャンは律法の下にはなく恵の下にあるからです(ローマ6:14)。律法はまことの恵の実体であるキリスト(ヨハネ1:16)へと導く養育係としての役目を果たしたのです(ガラテヤ3:23,24)。恵とは内に生きるキリストを経験することに他なりません(ガラテヤ5:4)。もともと神は律法が入る430年前にアブラハムに対して、女のすえ(単数形)であるキリストを与える約束をしておられ、律法はその約束を無にすることはなかったのです(ガラテヤ3:16−18)。そしてまことのアブラハムの子孫は信仰による子孫です(ガラテヤ3:7)。

      かくして約束のキリストを内に宿した私たちは、その内なるスーパー・エンジンであるいのちを見出し、その能力に信頼し、その力を知れば知るほど、私たちは大胆になります。キリストにある自由をエンジョイします。しかも律法は自然と満たしているのです。これがクリスチャンと律法の関係です。鍵は十字架によるエンジンの交換であり、十字架は死と復活の原理により、この古きものと新しきものとを切り分けるのです。


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