親の救い−神の時と神の方法−



医学博士 唐沢 治 (Osamu Karasawa Ph.D.)


神の答えは遅くなっても、間に合わないことはない(アンドリュー・マーレー)。


親の救い

これは私たちクリスチャンにとっては相当に大きくまた厳粛な神の前での課題であることは誰もご承知のとおりです。しかも他人に福音を伝えることより、肉親に伝えることの方がはるかに困難なことなのです。こちら側から見るならば、散々にお世話になったというある種の負い目がありますし、相手側はこれまで育てたのは自分たちであるとする部分があります。加えて幼い頃からの情緒的関係も加わり、このような感情的なもつれを複雑にしているために、福音を率直に語ることがひじょうに困難に思われるのです。私の場合もそうでした。私が救われてから20年近くなりますが、この間、両親の救いをずっと求めてきました。しかしなかなか道が開かれず、もどかしい思いをしてきたのでした。


しかしついに来るべき時が来てしまいました

それは3年前(98年5月)に父親が死に瀕する場面に立ち至ったのです。彼は長年の悪習慣であるタバコのために、肺気腫で肺がボロボロになっており(いわゆるチェイン・スモーカーでした)、この6、7年は呼吸困難の症状を呈していました。そこに加えてついに肺炎に罹ってしまったのです。田舎の御袋からは涙声で「親父がもう駄目だから親族を呼んでおくように主治医から言われた」との電話を受け、その時は私も何らの備えもなかったので、慌てて帰省しました。そのCT像を見ると、健康な肺はスポンジのような状態なのですが、親父のものはヘチマのように内部が穴だらけで、ようやく表面の部分だけが生きている状態で、さらに炎症でレントゲンの平面像も真っ白でした。医者は眉間にしわを寄せて、「一応あらゆることがあり得るのでそのつもりでいて下さい」と言うのでした。私は親父の生死自体よりも、彼がまだイエス様を受け入れていないことに困惑を覚えました。

私はやせ細ってあばら骨が浮き出ている親父の胸に手を置いて、マルコ福音書16:18節にしたがって祈りました。正直に言いますと、親父の悲惨な状態を見るときに、確固たる信仰を持ち得なかったのですが、信仰は意志の選択ですから、単純に御言葉に立って祈ればよいのです。私は、彼が救いを受けるためにあと5年間の猶予期間を与えて下さるようにと祈りました。その間紆余曲折はありましたが、結果として親父は退院することができました。ただし鼻に酸素吸入のチューブをつける生活になりました。

その後しばらくは順調に回復し、こちらもやれやれでした。が、しかし再び98年10月にお袋から涙声で親父が再び肺炎に罹ったという連絡を受けました。状態は前回よりもクリティカルで、炎症の度合いを示すCRPの値が通常の肺炎の10倍もあるという酷いものでした。主治医からは「今度こそもう覚悟して下さい」とのことでした。しかもすでに何種類もの抗生物質を使っているために、抗生物質耐性菌(MRSA)の出現の危険性もあります。この耐性菌が出ると、抗生物質が効かなくなり、体力が落ちている老人の場合はまず致命傷となります。医師もどの抗生物質を処方するか手探り状態でした。したがって決め手になる薬剤がなかなかつかめず、親父の肺炎はいつまでもクリアになりませんでした。「今度こそもうだめだ」と一瞬思いましたが、それでも再び信仰を振り絞って祈りました。またまた紆余曲折がありますが、親父は退院することができました。しかし今回は健康な部分が肺炎で侵されたために、彼はほとんどベッドでの生活になりました。こうしてしばらくは安定した状態で来ました。


しかし今回再びトラブルが起きました

それは今年(2000年)の10月16日の第1回目のVIPセントラルの集会の開始直前でした。加藤凉子さんが私の元に来られて、何となく慌てたようすで、「唐沢さんの奥様からすぐに自宅に連絡するようにとのお電話がありましたよ」と教えて下さいました。私は何となく嫌な感じがしましたが、電話で話を聞くと、田舎の親父が倒れた、肺の喚起機能が落ち、CO2中毒で意識障害があって、救急車で病院に運ばれたからすぐ帰るようにとの田舎からの連絡があったとのことでした。しかし今回は不思議と動揺することもなく、すばらしい平安が臨んでおりました。

第1部の集会が終わって、第2部の際に、真っ先にミッション・ラザロと私のミニストリーの報告をする機会をいただいて、その最後に勝利宣言をさせていただきたいと申し上げて、田舎の親父が危ないという連絡を受けたが、主が勝利を取って下さったことを宣言します、と言って終わりました。みなさんは突然の私の話に少し驚かれた様子でしたが、私は平安と安息が深かったので、とにかく宣言すべきであると導かれたのです。家に帰って田舎の様子を聞くと、親父の状態は改善したとのことでした。

ところが翌翌日の水曜日に再び大学に家内から電話があり、すぐ田舎に戻るように主治医から言われたとの連絡を受けました。講義は午前中で終わりましたので、すぐに家に戻り、家内と共に田舎に向かいました。途中で高速のサービスエリアで田舎に電話すると、すでに親父は全身を痙攣させて意識を失い昏睡状態に陥っているとのことでした。「ああ、間に合わないか・・・」と一瞬思いましたが、内側には平安がありました。またまた信仰を喚起して祈りました、「天地の造り主なる神よ、あなたこそすべてを統べ治めておられる主です。人の生死もあなたの御手にあります。何があれ、どんなことが起ころうとも、あなたは主であり、ただあなたを礼拝します」と。

その瞬間、祈りが天に届いたことが分かりました。恵みの御座にタッチしたことが分かりました。御座から恵みが注ぎ出されるのが分かりました。そして親父が神の御手の中で天に吸い込まれて行く幻が見えました。「ああ、今、彼は救われた・・・」と分かりました。心の底から安堵感があふれて来ました。いわゆる"聖霊の内的確証(Inner Witness of the Spirit)"です。するとその瞬間、さらに不思議なことに、隣にいた家内が「今、やさしい霊に包まれているみたい。恐れとか不安とかがなくなってしまったようね」と言うのでした。私もまったく同様の感覚を覚えておりました。死の刺よ、お前は何者か・・・。二人とも聖霊に完全に包まれていたのです。


それは素晴らしい経験でした

あかたも天国にそのまま入っているかのような感覚でした。やがて田舎の病院に到着する頃には、二人とも喜びがあふれて来て、抑えて切れないほどでした。車を降りる時には、何と顔が笑顔でほころんで来てしまい、父親が危篤状態にあるのに、周りの人から見たら不謹慎と見えるような感じで、あたかも合格が分かっている合格者発表掲示板に向って走るかのような状態でした。私はむしろそのことに困惑を覚えました。

病室に入ってみると、親戚の人々がたくさん深刻な顔で集まっておりました。しかし何と、親父はちゃんと目をあけて、話もできる状態でした。もちろん呼吸困難があり、酸素マスクをしており、すこし言葉が不明な点もありますが、意識も明瞭で、意思疎通ができるのです。キリストに反抗的な霊を持っている弟は、何でもっと早く来なかったのか、とすごい剣幕で迫るのですが、親父は意識も戻り、話もしているのです!私の脳裏にはラザロの蘇りの光景が浮かびました。

私たちはこの機会に親父の決断を迫ることを導かれ、イエスがされたように周りにいる不信仰の人々に部屋の外に出てもらい、主に感謝の祈りを捧げました。涙が滝のようにこぼれました。そして親父に「じいさんも、イエス様を信じるよな?」と問うと、彼は「おう」と言ってくれたのです!かつて何を語ろうとも決して彼の口から出てくることのなかった言葉です。私も家内も感極まって、「ありがとう、ありがとう」としか言葉が出ませんでした。すると親父は怪訝そうな顔で「これだけでいいのか・・・?」ととぼけた質問をしますので、「そうこれだけでいいんだ」と答えました。ハレルヤ、勝利です!

イエスと共に十字架につけられた二人の強盗のうち、一人はイエスを認めて、まさに十字架上で人間的には何等の希望もない状態にあって、救いを受けます。彼は人生の大逆転をするのです。「イエス様、私を覚えていて下さい」との言葉に、「よくよくあなたに言っておく、あなたは今晩私と共にパラダイスにいるであろう」とイエスは答えます。「パラダイスにいる」のみではなく、「私と共に」と言われるのです。これがイエスです。親父もまさに人生の大逆転をしたのです。一旦は全身痙攣と共に昏睡状態に陥ったのですが、主が引き戻して下さったのです。帰りの車の中で家内と二人で大声で感謝と賛美を捧げました。主は勝利、主は勝利!!!


目下の状況は

親父は、主治医からあと数日との宣告を受けておりましたが、状態が改善してきており、それまでは放置状態であったのですが、医者ももう一度やってみようということで、中心静脈から栄養を一気に流し込む処置も開始されました。彼は現在もなお生き延びております。彼は医師の管理下にあるのではなく、神の御手の管理下にあるのです。仮に召されるとしても、彼は主と共におるという素晴らしい栄光の領域に入るのです。死はその刺を奪われてしまったのです。ハレルヤ!

もしあなたが信じるならば、神の栄光を見るであろう(ヨハネ福音書11:14)。


追 記

その後、父は2000年11月7日午前8時15分、平安と安息にあって天に召されました。享年72歳。その顔は安らかで、何か肉体の苦痛から解放されてホッとした感じの素晴らしい表情でした。この3週間弱は医師も奇跡であると言うほどに持ち堪えておりましたが、ようやく主はその肉体の苦痛から彼を解いて下さいました。今、私たち家族は不思議なほどの平安と安息、そして彼が天に凱旋した喜びで満たされております。皆様のお祈りを感謝いたします。

父の召天に際して、主が語って下さった御言葉です:

正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものはとこしえに安らかな信頼である。
わが民は平和の住みか、安らかな宿、憂いなき休息の場所に住まう。
(新共同訳、イザヤ書32:17,18)



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