ハードコア・プロファイルズ

−人間の実存的状況の病理と処方−




第3回

アイデンティティの確立@

前回、霊的成長のプロセスとして、安息すること、真理に歩むこと、敵に立ち向かうこと−の三段階をあげました。今回は"段階"という用語を"層(レイヤー)"と言い換えます。つまりこの三点は成長の過程で経過する性質のものではなく、むしろ建造物のように順々に積み上げられるべきものだからです。土台は安息の層、その上に真理による歩みの層、一番上に敵との対決の層が積まれます。

この土台とはエペソ一章一節から三章二十一節に啓示されたリアリティに安息することです。すなわち神の永遠のご計画(ルビ:エコノミー)による選びと救い、キリストにある霊的地位と祝福、御国を継ぐ約束の証印としての御霊、御霊による神の奥義の啓示、恵みと信仰の原則、ユダヤ人も異邦人も教会として構成されること−これらの上にアイデンティティを建て上げるのです。大切な点は私たちがこれから何かを達成するのではなく、すでに神が成就された客観的事実(=真理)を信仰によって受け入れ、天的領域に座すればよいのです(エペソ二・6)。完成されたリアリティから現在を評価することを私は「霊的逆算」と呼びます。



一、本質的必要の充足


(1)霊的アイデンティティの確立

このレイヤーにおける私たちの基本的な必要は自分の業を止めて休むことです(ヘブル四・3)。救いは私たちの資質や達成などの属性によるものでは決してありません(エペソ二・2-7)。それは一方的に神の主権による選びとキリストの十字架の血のゆえです(同一・4,7)。

ただし人間が高価で尊いから、あるいは人間の諸問題を解決するためにキリストが身代わりに死んで下さった、という十字架の理解はあまりにも浅薄であり、十字架の意義を引き下げるものです。十字架は第一義的に神ご自身の愛と義を証しする場です。神はキリストという全き捧げ物を受けて、真に満足されたのです(ヘブル九・26、十・5-7)。キリストは神に対するかぐわしい香りです(レビ記の各捧げ物参照)。すなわち十字架は第一義的に神の神たるすべてを証し、神の必要を満たす場なのです。

また罪の無い御子が罪とされて十字架で死なれたとき(ローマ八・3、第二コリント五・21)、実は私たちも共に死んだのです(ローマ六・6)。キリストが裁かれたときに、私たちも同時に裁かれたのです。罪の赦しと救いの確信を得る根拠はこの霊的事実(リアリティ)です。私たちはキリストにあってすでに裁かれたので、キリストにある私は罪に定められません(ローマ八・1:『ダブル・ジョパティ』の法理)。

しかし現代の多くの働きが自己を生かそうとし、結果は互いの肉を気持ち良くするだけです。これは終わりの時代の人好きする教えであり、真理に基づいていません(第二テモテ四・3-4)。人々は砂糖まぶしの装飾によって欺かれ、問題の本質からそらされ、真のアイデンティティを見い出すことができず、問題を先送りします。神の目には最初のものはすべて死に渡されるべき肉のものであり、第二の復活の領域のものが御霊のものです(『死と復活の原則』:第一コリント十五・35-49)。死を経ていないものはすべてフェイク(擬似物)です。

しかしキリストが三日目に復活したとき、私たちも共に復活し、天に座したのです(ローマ六・5,8、エペソ二・6)。かくして霊が真に再生された者はキリストの死と復活に結合されたものとして、新しい私を得ているのです。そして絶えず魂は十字架の死の効力の下に服し続ける必要があり、その時絶えずキリストと共なる復活のいのちに生きるのです(ピリピ三・10,11)。この死と復活によってのみ、私たちの真の霊的アイデンティティを確立また担保することができ、さらに真の安息を得ることができるのです。

(2)霊における御霊の照明

このリアリティは私たちの霊(直覚)によって実体化され、霊に投影されたリアリティを魂の思いが御言葉と照合しつつ解釈します(第一コリント二・10-14)。このとき御霊が御言葉と同時に働かれるのですが、この結果感情も神の愛に触れ、平安と安息が満ちるようになります(ローマ五・5、ピリピ四・7)。ささくれ立った感情に油が塗られ、霊的なモイスチャクリームで滑らかにされます。先に思いによって納得しようと努めてはなりません。神の啓示はすべてまず私たちの霊に投影されます(エペソ三・5)。また感情によって判断してもなりません。感情の満足や安息は、霊から魂に啓示がもたらされる結果です。

その霊の光が思いの中に照らし込むまで御言葉に目を留めているのです(第二ペテロ一・19)。信じる者はキリストの体の肢体としての栄光の立場と富と祝福を霊によって見るのです(エペソ一・18、三・7)。頑なだった意志は神のご計画に対して柔らかにされ、神の御旨を実行します(同三・8-9)。これは自己努力によらず、御霊の働きです(同三・16)。

(3)自己努力(取り繕い)からの解放

神の目においては私たちの罪の赦し・病の癒し・必要の満たし・敵に対する勝利など、すでにすべては完成されています。私たちもすでにキリストが捧げ物として死なれたゆえに、聖とされ、完全とされています(ヘブル十・10,14)。この事実は私たちの属性や努力に一切よりません。それはただ御子イエスの血のゆえです(エペソ二・13)。

御霊を受けるのも徹夜・断食祈祷をしたからでなく、すでにイエスが血を流されたゆえに御霊が下っているからです。レビ記ではらい病患者に血を塗るとただちに油も塗られました(十四章)。御霊の油塗りを受ける根拠はイエスの血です。ただ信じるならば血によって汚れた良心は清められ、真に安息を得ます(ヘブル十・22)。同時に御霊を受け、御霊はイエスのパースンと言葉を私たちの霊に証し(ヨハネ十四・26、十六・15)、私たちが神の子であることを私たちの霊と共に証しされます(ローマ八・15,16)。御霊によってキリストが私たちの内に生きて下さいます(エペソ三・17)。その永久不変の真理の内に自己のアイデンティティとあらゆる救いの保証を見い出して、自らのわざを解かれて真に安息するのです(ヘブル四・3)。

現代クリスチャンの多くがこのレイヤーが脆弱なため、心の奥深くの安息を欠き、キリストによる基本的な必要の満たしを得ないままに、伝道や奉仕に駆り立てられ消耗しています。「私はこう思う・感じる」式の"極私的信仰"によって、依然として自分の"何か"を当てにしているために、容易に敵に欺かれるのです。徹底的に自己に絶望し、ただキリストと共なる死を願い、その死のリアリティのうちに留まる人は(注意:死のうと努めるのではありません)、御霊による復活の領域で新しい自己を見い出し、キリストの平安を得ることができます(ヨハネ十四・27)。



二、ケース・スタディ


ではいよいよケース・スタディに入ります。個々のケースはすべてフィクションとして構成しますので、モデルの追及とか特定の個人団体を批判しているなどの感情的反応をする誘惑に乗せられない霊性を保つように願います。

一般にこのレイヤーの脆弱性のため、三種類の取り繕いのパタンに陥り、"霊的コスプレ・シンドローム"を呈します。リアリティに触れ損ない、自分勝手なフェイクを建て上げてしまうのです。すなわち、@良心過敏による葛藤、A自己属性によるアイデンティティの追求、B霊的鈍磨による霊的洞察の欠如―です。これらの病理を抱えた者同士が共鳴・反発しつつ相互作用し、キリスト教会の錯綜した人間関係が形成されます。