ダイナミック・フリーダムH

―キリストにある自由の獲得―


赦しの実行(2)




(つづき)
この従順に対して、御霊は私たちの痛んだ感情の傷にその愛の油を注いで下さいます。この時、私たちの心は最初は甘酸っぱい感覚ですが、徐々に暖かく甘い感覚が満ちてきて、熱い涙が頬を伝います。その涙の一粒一粒がこぼれる毎に傷が癒されるのです。以前は苦い根が張っていた心に(ヘブル十二・15)、今や深い平安と安息が満ちるのです。イエスの言葉:「父よ、彼らをゆるして下さい。彼らは自分が何をしているのか分からないのです。」が、実は私に対するものであったことが分かるのです。


こうして内側に蓄積されていた霊-感情観念複合体はそのエネルギーが放出されて、事件は記憶に残っていても、感情の疼きが消失していきます。すると時間の経過と共に記憶すらなくなり、ついに忘れ去ってしまうのです。これは御霊の御業であって、神の側の責任なのです。自分で忘れ去ろうとする必要はまったくありません。

ただしあまりにも深く傷を負ってしまうと、感情がブロックされて、意識の上では何も感じないことがあります。これは"分離"という精神の自己防衛機制であって、意識に浮かぶ表象(観念とか映像)と感情を切り離してしまうメカニズムです。こうしないと堪え難い状況に直面して自我が崩壊してしまうからです。抑圧された感情をよみがえらせて処理するために、回復のプロセスも時間がかかります。

大切なのは現在のキリストにあるアイデンティティを明確に確立することです。確立するにつれて御霊が過去の記憶と共に感情をよみがえらせて下さいます。ここでその感情を追体験することにより、解放されていきます。いきなり過去を探ったりしますと、パニック発作やカタトニー(全身の硬直)が起こったりますから注意が必要です。


(2)サタンが心を責めるときの対応

サタンは私たちの思いの中に自分の想いとか映像を置くことができます(ヨハネ十三・2)。サタンは兄弟たちを中傷し、神の前で訴えます(黙示録十二・10、ゼカリヤ三・1)。しかし裁かれているのはサタンです(ゼカリヤ三・2、ヨハネ十六・11)。私たちが意志をもって赦しを宣言しても彼は諦めません。私たちの感情に残る傷の疼きとか記憶の痕跡を指摘して、あるいは肉を刺激して煽り、「まだお前はあの人のことを根に持っている、それで本当に赦したなんて言えるのか。偽善ではないのか・・・」と執拗に責めてきます。

この声を聞いてはなりません。私たちはいったん赦す宣言をしたのであれば、神の前での咎めはまったくないのです。傷とか記憶は私たちの肉の内にあるのであって、霊とは何も関りがありません。それは現在の私のアイデンティティではないのです。霊は義のゆえに生きているのです(ローマ八・10)。御言葉は霊と魂を分離させて下さいます(へブル四・12)。

サタンの声が聞こえたら、ただちにイエスの血を取って下さい。イエスの血で霊的な耳を蔽っていただくのです。また思いに沈み込んで沈黙してはなりません。ジメジメとした声が聞こえるだけです。大胆に声を上げるべきです:「サタンよ、私はすでに御言葉に従って、○○さんを赦した。神の御前ではすでに問題が解決している。お前がとやかく言う筋合いはない。イエスの十字架と血を見よ。お前は裁かれ、敗北したのだ。イエスの御名によって引き下がれ!」と。

私たちはサタンに対して、小羊の血と証しの言葉(ロゴス)によって打ち勝ったのです(黙示録十二・11)。もし自分に確信が欠けていたとしても、客観的事実を証しするロゴスを語り出すのです。十字架でサタンが敗北し、裁かれていることは、私に確信があるか否かによらず永遠に成就した霊的事実です。それをサタンに思い起こさせるのです。

またもし自分の心が責めても、神は私たちの心よりはるかに大きい方ですから、その方にすべてをお委ねしましょう(第一ヨハネ三・20)。私たちには天の真の至聖所に、ご自身の血によって、また体を裂くことによって入られた、真の大祭司がいて下さるのです(へブル九・11-14)。この大祭司は私たちの弱さを憐れんで下さる方ですから、大胆に恵みの御座に近づきましょう(へブル四・14-16)。

(3)肉に欺かれないこと

私たちの肉は致命的に腐敗しています。もはや改善の余地はありませんから、それは十字架につけるのみです。否、すでにキリスト・イエスにある者は情と欲と共に、自分の肉を十字架につけてしまったのです(ガラテヤ五・24)。これはギリシャ語では不定過去(アオリスト)です。いつかは知りません。多分皆さんは記憶にはないでしょう、しかし、聖書にそう書いてあるので、それが真理です。自分の感情や記憶による判断か御言葉か、そのどちらを選択するのかが問われるのです。意志を用いて真理を信じるならば、それが自分の経験になります。信仰とは選択です。

注意すべき点は、私たちはしばしば自分の苦しい生い立ちや、悲惨な過去や、惨めな経験を"宝物"にして、握り占めている場合が多いのです。自分はこれほどの苦難を経てきた、自分はこれほどの代価を払ってきた、自分は普通の人以上の特別な経験をしてきた、自分の経験は誰も分かってはくれないだろう・・・。実はこれらの主張の中心にあるものは"自己"です。「自分の、自分は、自分が・・・」です。しばしば傷を受けて苦しんでいる人は、その苦しみ自体に耽溺しているのです。その"苦しんでいる自分"がアイデンティティになっています。だから他人から「そんなのは大したことがない」などと言われるならば、たちまち怒り出すのです。私たちの肉的な心はよろずのものよりも偽ります(エレミヤ十七・9)。自己憐憫の霊はますます心の視界を曇らせます。

ここに留まっていてはなりません。意志をもって、信仰によって一歩を踏み出すのです。いかなる不幸な事態、あるいは悲惨な事件によって、自分の体や心が傷つけられたとしても、現在の私は神の子とされた新しい創造であることを新たに確認すべきです(第二コリント五・17)。外なる人は古びても、内なる人は日々新しくされます(第二コリント四・16)。地上の幕屋は滅びても、私たちは天に住処が備えられています(第二コリント五1-5)。

事実は事実です。自分の体の傷や心の傷から目を逸らすことなく、しかし過去や肉を探り続けることを止め、キリストにあって新しく得た私に目を留めて、そのいのちを生きるのです。自己憐憫の霊から解き放たれることを御霊に求めましょう。また自らその自己憐憫の霊を脱ぎ捨てるのです。今後一切の他人の理解とか同情を求めることを止める、と決断しましょう。自分に対する誠実さと、自分の魂を否むこと、これが霊によって新しいいのちを生きるために必要な条件です。


■三、信仰の宣言と祈り


天の父よ、あなたは御子イエスの血によって、私のすべての罪を赦して下さったことを感謝します。今、私は人々を赦せなかったことを告白します。血によって洗って下さい。赦せない心と自己憐憫の霊から私を解放して下さい。イエスの十字架と血潮の勝利のゆえにあなたを賛美します。今私の赦さない罪を赦して下さり感謝します。

主イエスよ、これまで自分の過去を守り、あなたにも触れられることを避けていたことを赦して下さい。人からの同情と慰めを求め、誠の憐れみと慈しみに富んだあなたを排除していたことを赦して下さい。

今ここでイエスの十字架と血によって、私に不義を働いた人々、私を傷つけた人々、私を拒絶した人々、私を悪く言った人々を赦します。彼らもイエス・キリストの赦しを知り、御父に受け入られますことを祈ります。

特に○○さんを○○のゆえに赦します。天の父よ、この件に関して、またこれを引き起こした関係者に対して、間違った態度を取ったことを赦してください。私は、今、私を傷つけ、私にネガティヴな結果をもたらしたこの件や関係者から、イエスの十字架と血によって解放されていることを宣言します。

天の父よ、サタンがこの事件を通して、付け入ることがないことを宣言します。今私は未来に向かって、信じる心、赦しの心、愛と慈しみ、そして確信に満たされて前進します。御霊の力によって、キリストにある新しいいのちを生きられることを感謝します。



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