ダイナミック・フリーダムF

―キリストにある自由の獲得―


反抗心とプライド

を対処する(2)





■三、プライド


(1)自我の担保と肉の達成感

人は神の前での真の霊的アイデンティティを喪失した結果、自己の魂と肉体をもって、それを獲得すべく自己努力に邁進します。これが肉です。この世はそのお互いの間で展開するダイナミクスから構成されています。

ところがしばしばクリスチャンでさえ、神の子としての真の霊的なアイデンティティを見失うとき、自分の属性にその保証を置こうとします。ある人は牧師職を得ることにより、ある人は伝道師としてキリストに導いた人数が自己存在の確認となります。この場合、もっとも深い部分における真の安息と平安が欠如しているために、そのアイデンティティの担保に異議を唱えられたり、否定されたりすると、ただちに攻撃的姿勢が見られるようになります。

プライドについて、パウロは語ります:「私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です・・・」(ピリピ三・4-6)。

タルソのサウロは当時の最高の学者ガマリエルの下で薫陶を受け、血統も一流で、ユダヤ教に邁進していました。彼は何らの疑いも持たず、宗教的確信を持って、ステパノの処刑に荷担し、弟子たちを捕縛していたのです。これが彼のアイデンティティの置き処でした。

一方、今日の教会によく見られる「自分はだめだ、自分は哀れな者だ、自分は敗者・失格者だ」と常に自己憐憫に満ちた繰り言も実はプライドの裏返しです。この言葉の裏には、やはりアンタッチャブルなプライドによって装飾された自己が息づいているのです。自尊心と劣等感は同じことの裏表です。

(2)プライドの粉砕

よく聞かれる台詞に「自我が砕かれる」があります。これはもっともらしき聞こえますが、一歩誤ると危険です。主イエスご自身が「エゴ・エイミ(私はある)」と言っておられるとおり、"自我"自体には何らの問題はないのです。"砕かれる"その対象は自己(エゴ)のアイデンティティの置き処と担保、そしてエネルギーの源です。私(エゴ)自体は存在して良いのです。私たちは魂の救いを受けているのです(ヤコブ一・21、第一ぺテロ一・9、二・25、四・19、第三ヨハネ一・2)。すなわち私たちが自分のアイデンティティを神から独立した要素に置き、エネルギーの源泉を魂に置くことが問題なのです。

パウロに戻りましょう。彼は何の前触れもなく、突如天からの光で打ち倒され、自分が神のためにと思ってしている行動が、実は主であるイエスを迫害していることであると否応無しに知らされたのです。この瞬間のサウロの困惑とショックは如何ばかりであったでしょう。

さらに盲目にされた彼は、アナニヤという名もない一兄弟によって癒されるのです。彼の盲目は彼の内的なショックの表現であり、またそれまでの彼の霊的盲目を意味していました。彼の肉体の目が開くと同時に、彼の霊の目も開き、イエスが神の子であることを見るのです。しかしサウロはこの偉大な真理を見るために、なんと自らを低くされたことでしょう。現代で言えば、一流神学校で神学博士を取得した人が、無名の一平信徒によって、その目を開かれるのです。彼のプライドの置き所はどこにあるでしょう?

自らの信条とアイデンティティの担保が根底から覆されるのです。まさにサウロにとって、この事件は彼の十字架でした。彼はいきなり「ペヌエルの経験」をしたのです!砂糖まぶしの福音によって、なだめすかされつつ自問自答を繰り返して、ある日ようやくイエスを告白する決心をする現代のクリスチャンのような回心ではなかったのです。否応無しの、極端に言えば、暴力的な回心だったのです。

その後彼は三年間ほど一人アラビヤに退き、その間の彼については何も記録がありません。おそらく彼は自らの"来し方"を振り返り、自らの"信仰"を総括し、新たに神からの啓示を受けつつ、新しい信仰とキリストにある新しい自分を建て上げる作業に沈潜していたものと思われます。彼にはそのような時間が必要だったのです。これが新約聖書の三分の二を構成する彼の書簡を生んだのです。

そこにはとてつもない自分自身に対する誠実さが要求されます。この間の内的葛藤のなごりはその後の彼の文章にしばしば観察されます。私たちはしばしば自分のプライドが砕かれるために、このようなトラウマを経る必要があります。こうしてパウロは「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」と告白するに至ります(ピリピ三・7-8)。

自己憐憫に満ちている人も同様に、真のキリストにあるアイデンティティを御言葉どおりに確立する必要があります。真の謙遜とは、御言葉が語るとおりに信じることです。

今日、キリストの教会の中で野心を抱き、自己の属性や自己の達成の上にプライドを建てたり、逆に働きに失敗して行き詰まる人々は、しばしばこの世では得られなかった"何か"を補償的に獲得する試みをしている場合が多いのです。この世で得ている人は、むしろ教会にあっては、ただ安息していたいと願います。しかしながら「見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます」(ピリピ一・18)とあるとおりです。


■四、信仰の宣言と祈り


天の父よ、私はすでにイエスの血によって罪を赦され、あなたの子されていることを感謝します。これは絶対に変わらない真理です。私はキリストにあって、真のアイデンティティとあらゆる必要の満たしを得ていることを感謝します。もはや自分の何かに頼る必要がないことを宣言します。今、私の独立的で自己完結的な態度、神の言葉をないがしろにし、信仰によらない領域を御霊によって照らして下さい。

主イエスの御名と血潮の力によって、敵の欺きにより、あなたに対して意識的また無意識的に反抗してきた部分や自分でプライドを建て上げた領域を捨て去ります。自分自身の属性の上にアイデンティティを建てていた領域を手放します。すでにアダムにある古い私は終わり、キリストにある新しい私が生きていることを宣言し、感謝します。私はすでに死に、私のいのちはキリストとともに神のうちに隠されていることを感謝します。

また他人からの同情や憐憫を求めた領域を捨て去ります。自己憐憫の霊を拒否します。天の父よ、私が自分自身について御言葉に反して語った言葉やキリストにあって得た嗣業を無駄にしたことを赦してください。

私は今、コントロールの霊を拒否します。自分自身の手練手管によって策を弄することも拒否します。また他人によって操作されたり、欺かれてきた領域を捨て去ります。また私をとおしてその霊が他人の上に働くことを拒否します。真に平安と安息に留まる人は、人をコントロールしません。またゴシップなどを流したり、噂話に関ったりもしません。そのようなことに誘惑されない、真のキリストにある平安と安息に導き入れ、そこに留まらせて下さい。私をコントロールしようとした人々を赦します。彼らが御霊と御言葉のみに服することにより、真の霊的権威を帯びた指導者となることを祈ります。

ここで再度私は真理に対して自分自身をお委ねし、自己から解かれてキリストにある自由の中に生きることができるように、また偽りの告訴者悪魔から解放されるように祈ります。あなたはつねに私をキリストにある勝利の凱旋へと導いてくださることのゆえに感謝と賛美を捧げます。




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