Kingdom Fellowship Church

Message Outlines

2006.02.12

神のエコノミーS

−一頭の雄牛−

アロンとその子らは聖なる装束を身につけ、聖別のしるしの額当てをつけ、油を注がれました。この油はキリストに注がれています。頭なるキリストから流れるのです。雄牛の頭に手をおき、門の外でほふり、血を祭壇に4つの角に塗り、基に流しました。肉や皮は宿営の外で焼かれました。主も神へのなだめの供え物として門の外で苦しみを受け、血を注ぎ出し、宿営の外で焼かれました。捧げ物は罪を焼き尽くすと面と、神へのなだめの二面があります。私たちも同様に聖別のしるしを聖霊によって刻印され、主と一体化されるときに、その死と復活に与ります。私たちの罪々は主の血によって洗われ、罪は主の肉体において裁かれています。しかしそれを実体化するのは十字架と御霊です。たえず十字架の死に与るときにのみ、その霊的リアリティは私たちの経験とされるのです。臨在の幕屋の中には古いもの(肉)や、どんなに立派であっても皮(=生まれながらのものの外見)を持ち込むことはできません。それらは焼かれる必要があるのです。私たちも時に焼かれる経験をすることでしょう。私たちの経験においても、一面すでに罪の対処はキリストの聖なる体において成就していることを信じ、一面に私たちが自ら十字架を適用することにより、その死と復活を実体化するのです。いずれ私たちの行為や業はキリストの御座の裁きでジャッジされ、木・草・わらは焼かれてしまいます。そのときに焼かれるよりは、現在において焼かれたほうが幸いです。自ら裁くならば、裁かれることはありません。鍵は十字架による死と復活の経験です。



1.神のご計画(=オイコノミア)

・神の家族を得、その家族の中で管理・配分・配剤を行うこと(エペソ1:10;3:2;テトス1:7)

・究極的には神の子たちの出現(ローマ8章)


2.幕屋建造の順序(出エジプト25-30章;1コリント2:9)

@契約の箱→パンの机→燭台→幕屋の幕→壁板・横木→至聖所の垂れ幕→入り口の幕→祭壇→庭→常夜燈→祭司服→聖別→祭壇→いのちの代償→手足の清め→聖別の油→香料

M祭司の任職(出エジプト29:4-14)

( ii ) 罪のための供え物:

・アロンとその子らは装束をつけ、聖別のしるしの額当てをつける(cf.エペソ1:13)
・油を注がれる→まことの大祭司キリストに注がれた油(cf.詩篇133編)
・牛に按手する(一体化する;ローマ6:5)→幕やの入り口でほふり、血を祭壇の4つの角に塗り、後は祭壇の基に流す
・脂肪などは祭壇で燃やす(ガター=芳しい焼き方)→神へのなだめの香(1ヨハネ2:2;4:10)
・肉、皮(外見)、胃の中身は宿営の外で焼く(サラフ=高熱で焼き尽くす)→古いものは臨在の幕屋に持ち込めない(コロサイ2:11;3:9)→犠牲の二面性
・主は罪(チアッタス)とされ、いけにえ(チアッタス)とされた(ローマ8:2;1コリント5:21)
・主は門の外で苦しまれ、祭壇に血を流し、聖なる体は罪のゆえに焼かれた(ヘブル9:14;13:11-13)
・罪の二面性:罪々(sins)とそのルーツとしての罪(Sin)
・行為としての罪は血によって除かれ、ルーツとしての罪は依然として私たちの体に残るが無力化されている(ローマ6:14;1コリント5:21)
・主とアロンの違い:主はご自分のためには犠牲の供え物は不要であるが、アロンらは自分のためにまず捧げる必要があった(ヘブル9:7;11-14;10:14)
・現在の私たちの姿勢(1コリント11:31,32)



■暗証聖句:ローマ6:5;8:3;1コリント5:21;ヘブル10:14

もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。

肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

なぜなら、キリストは唯一の捧げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。