Kingdom Fellowship Church

Message Outlines

2005.02.06



いのちの務めL−共有するもの−

教会は人間が組織した教団や組織ではなく、キリストのいのちを吹き込まれた存在です。目に見えない普遍教会は時間と空間を越えたすべてのクリスチャンの集合体であり、それが時間と空間の中で現われた存在が地上の可視的教会です。私たちはこの可視的教会を通して普遍教会と接することができます。もちろん可視的教会はまだ十分に成熟はしていませんから、問題や葛藤もあります。その中で私たちが何を共有するかが鍵になります。もしいのち以外のもの、つまり働きや意見や価値観や聖書解釈などを共有するのであれば、分裂に次ぐ分裂です。私たちがもしキリストのいのちのみを共有することに焦点を置くならば、私たちの間に油塗りがある限りは互いの交わりからいのちの供給を受けることができます。教会は私たち自身であり、同じいのちを共有する神の家族として、神の畑として、真理の柱として、そしていずれキリストの嫁ぐ花嫁として召し出された存在です。いのちをお互いにシェアし、交換し合うこと、これが私たちの交わりの本質となるべきです。いのちによる建て上げがなされるとき、キリストは花嫁を迎えるために戻って来られます。その日を私たちは賢い乙女たちとして、油を蓄えて待つのです。



1.教会とは

@原語はエクレシア=召し出された者たち
Aキリストのいのちの霊を吹き込まれた存在(ヨハネ20:22)→ペンテコステの聖霊の注ぎは上からの力として
B二面性:普遍的教会=時間と空間を越えた歴代のすべてのクリスチャンの集合体
     可視的教会=時間と空間の中で現われた地域ごとのクリスチャンの集合体
Cキリストの体(1コリント12:12)
Dキリストの花嫁(2コリント11:2)
E神の家族(エペソ2:19;1テモテ3:15)
F真理の柱(1テモテ3:15)
G神の畑(1コリント3:9)



2.私たちが共有するもの

@キリストのいのち→キリストを交換することにより結合力が生じる
A聖書に啓示された神のビジョン→いのちの成長と花嫁の準備→新エルサレムへ
B働きや意見や価値観や聖書解釈などを共有しようとするとき無理が生じる




■暗証聖句:1コリント12:20-24

しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。