Kingdom Fellowship Church

Message Outlines

2004.12.12



いのちの務めF―人間的発想からの解放―

人は目に見える何か偉大な業や徴や奇跡を求めます。終わりの時代には特にこのような傾向が強まります。また人は自分が偉大なことをなし、偉大な者となることを求めます。それらを見ることによってそれらやそれらをなした対象を信じることができると考えます。しかしこの「信じる(believe)」は客観的に認識や評価の対象としているだけです。それに対してイエスの発想は自分はいのち(Zoe)のパンであり、いのちを与えるためにつかわされたことを強調されます。そのいのちを得ることこそが「信じる(believe into)」なのです。この信じ方は客観的に対象として信じるのではなく、いのちの有機的結びつきとしてひとつとなることです。このとき私たちの内側にいのちなるキリストが生きてくださり、私のいのちとして私を満腹させてくださるのです。そのためにこそ、つまりイエスを求めて、私たちは働くのです。またイエスは食べられるほどに小さな存在となってくださったのです。いのちにあずかるための条件はただ信じることです。頭で客観的に信じるのではなく、霊をもってその対象の中に飛び込んでしまうこと。そのときイエスも私たちの内に入ってくださるのです。イエスを対象として、神学や歴史学で研究するのではなく、主観的に味わい、享受することが、永遠のいのちです。人間的な宗教(教)や、実行や、考え方からますます解かれましょう。そのときますます内側が自由にされるでしょう。


1.神の思いはいのち、人の思いは徴・行い・業

@終わりの時代には人々は徴や業を求める
A人が高く評価するものと神の評価は異なる
Bはじめに戻る→エデンの園の様(いのちの木vs善悪の木)
C終わりを見る→新エルサレム=いのちの顕現


2.イエスのいのちの務め(ヨハネ6:22−31)

@イエスを探す動機:徴を見たからではなく、食べて満腹したから(26節)
Aいのちのレベル:生物学いのち(
soma)、魂的いのち(pshche)、霊的のいのち(Zoe)→もとめるいのちはZoeのいのち(27節)
Bイエスはいのちを与える者として神が認証された(27節b)
Cイエスの「働きなさい」に対して、弟子の発想は「神の業を行うために何をなせばよいのか」→神がつかわされた者を信じること(
believe into
D弟子の発想は「信じる(
believe)ためにどんな徴をなして下さるか」

3.“believe into” と “believe

@人の発想:見れば信じる(believe)→業を見て、客観的にその業や人を認識評価の対象として信じること
Aイエスの発想:信じれば(
believe into)いのちを得る→主観的に対象とひとつになって、その対象をいのちとして味わうこと→食べて満腹するためにイエスを求める
B私たちとイエスの関係は信じる対象と信じられる対象の二者関係ではなく、いのちにおいて有機的に結び合わされひとつにされている関係→主は私のいのちであり、満足であり、味わい、エンジョイし、満腹させて下さるお方!



■暗唱聖句:ヨハネ6:26−29

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」