Kingdom Fellowship Church

Message Outlines

2004.11.14



いのちの務めB―失えば得る(その1)―
私たちが救いに関して確信を失ってしまうのは、自分自身の行いや達成、自分自身の資質や徳性、人による評価や支持などに信仰を置いてしまうときです。それらの要素はみな不安定であり、時と共に移ろい行きます。もしこれらのものを当てにしているならば、私たちの歩みはアップダウンの繰り返しになり、ついには消耗してしまうことでしょう。私たちの救いの根拠はただ主イエスの血と十字架にあります。先週の魂と霊の葛藤のメカニズムは3つの法則の間に閉じ込められることによるのですが、この根本には自分で自分を救おうとして、自分の意志の力によって神の律法を行おうとする動機が潜んでいます。自分の何かに頼っているのです。パウロもこうして苦しみました。自分の何かが一切役に立たないことを知ることは幸いです。自分の何かを神に捧げることはカインの捧げ物であり、神に受け入れていただけません。私たちは自分で自分を救えないから、神は人なるイエスとして来て下さり、血を流して下さったのです。また十字架上で灰なるまで焼かれました。旧約ではこの血と灰を振り掛けることによって人は清められましたが、それは現在も同じです。血は私たちの良心を清め、神に仕える者とし、水に混ぜられた灰は降りかけられて、私たちを清めます。この水とは御言葉です。今もなお、血と灰は有効であり、私たちを徹底的に清めるのです。安心して神の御座にタッチしましょう。


1.魂の救いの原則

@自分の魂を救おうとすれば失い、失えば得る(ルカ9:23,24)
A自分で自分の魂を守ろうとすること自体が葛藤の原因→自己防衛機制
B魂のもの(メンツ・プライド・評判・達成・実績など)を失う時、霊的いのちを得る→解放感と満足感に満ちる


2.魂の葛藤のメカニズム(先週の2.)

@思いの中の神の律法を行いたいという思いの法則に逆らって、肢体の中の別の法則(罪と死の法則)が戦いを挑む→意志の力に頼った自力の救い
A神の律法を行いたい理由は、その行いによって自分の救いを得ようとするため→自力の達成に自分のアイデンティティと救いの保証を置こうとしている
B救いの保証の置き所はどこか→血潮と十字架


3.血潮の力

@血はすべての罪(sins)から私たちを清める(ヘブル9:13,14)
A雄牛を焼いた灰の力、水(=御言葉)に混ぜて降りかける(民数記19:9,12,17,18)
B血によって私たちの個々の罪々はすべて取り除かれている→良心に引っかかる事柄のみを告白して、そのことから離れ去る(1ヨハネ1:9)
C血に頼ること、さらには清めの灰の力に与ること→イエスは血をすべて流し出し、かつ灰になるまでに焼かれた事実にすべての保証を置く



■暗唱聖句:ヘブル9:13,14
もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。